「新しい契約の仲介者キリスト」

ヘブル人への手紙 9:11ー28

礼拝メッセージ 2025.7.20 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,死んだ行いから生ける神への奉仕へ(11〜14節)

 14節を見ると、旧約聖書の犠牲制度でさえ、からだをきよくするというのなら、まして「キリストの血」は「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか」と、著者は私たち読者に激励のことばを投げかけます。自分が果たしてきよめられているのかどうかと疑いを抱いているなら、気持ちが沈み、力は湧いて来ないですが、「確かに私はこのキリストの血によって、きよめられているんだ」という思いを明確に持つことができれば、私たちは喜んで生ける神さまへの礼拝と奉仕へと進ん行くことができます。
 この14節の「死んだ行い」ということばですが、私はこれまで、「行いが死んでいる」と理解していました。「行いが死んで何もない」というふうにです。ところが、ここは「死へと導く行い」という意味のようです。私たちの行いそのものが無意味であるばかりか、死へと運んでいるという衝撃的なことを語っているのです。ここで言う「行い」が具体的に何を指しているのか、奉仕のことなのか、仕事なのか、いろいろな日常的振る舞いのことか、明確ではありません。しかし、いずれであったとしても、その行動を起こす当の自分自身の心が汚れ曇っていては、神の御前に何も意味をなさないばかりか、マイナスな業になっているということです。もしそうなら、たとえそれが人間的に重要で立派に見える行為であっても、死と滅びへ向かわせる業になっていることになります。しかし、著者がここで明らかにしているのは、キリストの血による契約の中に私たちがいるのならば、すべての行いは神へのきよいささげものへと変わり、栄光の神への奉仕となるということです。


2,遺言としての契約(15〜17節)

 さて、次に注目したいのは、「契約」と「遺言」です。15節から17節で、これまで無かった「遺言」ということばが出てきています。しかし、15節の脚注にあるように、この「遺言」と訳されている表現は、これまで「契約」と訳されてきたことばと同じであることがわかります。これはギリシア語でディアテーケということばで、「契約」と訳すのがふつうですが、「遺言」とも訳せます。
 日本語にはその二つの意味を兼ねている単語はありませんが、英語には「テスタメント(testament)」という語があり、近い感じがします。英語のテスタメントを辞書で引くと、一番目に「遺言書、遺言」とあり、二番目に「神と人との契約」、三番目に「証拠、証左」という意味が挙げられていました。ご存知のとおり、旧約聖書は英語でオールド・テスタメントであり、新約聖書はニュー・テスタメントです。つまり、この「旧約・新約」の「約」の部分がテスタメントです。今回のこの箇所がその表現の元になっていることがわかります。
 16節と17節に、「遺言は人が死んだとき初めて有効になる」と書いています。これは日本でもどこの国でも同じことでしょう。遺言書の効力が生まれるのは、遺言者自身が亡くなってからのことです。生きている間は、それは未来の約束であって、実行には移されません。ヘブル書の著者が言いたいことは明らかです。神が人と結んでくださった遺言である契約も、その死の事実がなければ、それは実際的に効力を発揮することがないということです。新しい契約の仲介者キリストが確かに死なれたことにより、テスタメント、すなわち契約は有効となりました。


3,血が意味するもの(18〜28節)

 血、血、血

 さて、今回の聖書箇所で最もインパクトのある記述は、18節から22節ではないかと私は思っています。同じような内容が、12節と13節にもありましたが、ここで「ささげ物」あるいは「いけにえ」の「血」についてのことが詳細に述べられています。そこにあるのは、赤い「血」です。それも大量の血がいたるところにあるのです。これらの儀式は旧約聖書の出エジプト記、レビ記、民数記に記されています。
 旧約聖書の律法部分を読んでいても、また、このヘブル書の記述を見ても、現代の感覚から見ると、これらのことはとても奇妙な風習のように感じられるかもしれません。いけにえの動物が屠られて、血が流されます。そして祭司はその血を祭壇の部分に塗ったり、注いだりし、それを振りかける所作をしました。おそらく、これらの儀式が行われている間、祭司の装束も血で赤く染まっていたのではないかと思います。私も詳細にみことばを調べ、読んでいく中で、なんとも言えない気分になりました。改めて、神が律法で定められた、これらの犠牲制度は、いったいどういう意味があったのか、正しく理解する必要があると感じました。
 しかしこれは旧約聖書だけでは、どうしても解けない謎であると思います。新しい契約が明らかにされた新約聖書の説明なしに、その祭儀(儀式)内容だけではなかなかその本当のところ、その奥の奥、根底にある何かを解明できないと思うのです。

血を流すことがなければ、罪の赦しはない

 しかし、ヘブル書が示していること、これら旧約時代の儀式の本体、その実物は、神の御子キリストの十字架の御業であるということがわかると、これら動物の血を流すことにどんな意味が含まれていたのかが、やっと明らかになります。それは、動物の血というものは、神の自己犠牲的な愛の象徴であったということです。いけにえの動物の血が流されていくことにより、神は「すべてこれはわたしがあなたを愛し、あなたのためにわたし自身のいのちをささげるほどに愛しているからだよ」というメッセージが込められていたということです。
 これらのことの大前提として、罪というものがどれだけ深刻なことなのか、どれほどたいへんなものなのか、ということがあります。罪を曖昧にしたり、ごまかしてしまうことは神には決してできません。罪は必ず裁かれなければならないし、きよめられることが絶対に必要なことです。神が私たちをありのままで受け入れ愛してくれるというメッセージを聞くことがありますが、それは神が罪や汚れを大目に見てくれるという意味ではありません。すべてキリストの血が流されたからという前提があって、そのことを可能にするのです。罪深い人間がきよめられ、赦しを受けるためには、ほかでもなく、「血」が、「いのち」そのものが必要でした(22節)。いけにえの動物などの血が流されることは、実は、神ご自身が血を流すことに繋がっていたのです。そしてそれが時至って、実際に目に見えるかたちでなされました。それが神の御子キリストがいけにえの小羊として、十字架にかかってくださったことでした。パウロが語っていた「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)とは、まさにそういうことなのです。