創世記 17:1ー8,15ー21
礼拝メッセージ 2018.11.4 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神は確かにおられ、あなたをご覧になっています(1〜2節)
「今だけ、金だけ、自分だけ」ですか?
聖書も教会も、「神」、「神」と言いますが、神は本当におられるのか、私を助けてくださるのか、そこのところをはっきりと聞きたい方はおられると思います。先日、ある本を読んでいましたら、農業経済学者の鈴木宣弘という方の言葉が書いてあり、なかなかうまいことを言うなと感じました。それは今の時代について、「今だけ、金だけ、自分だけ」というのです。それからすると、聖書が語る生き方というのは、今の時代とは全く逆の方向性を持っていると感じました。今だけじゃない、神が用意されている約束や計画があるし、もちろんお金は大事ですが、それだけでもありません。自分だけではなくて、自分の周りにいる人々、後の子孫にまで神の約束が受け継がれていくという話が今日の箇所にはたくさん書いてあります。
今日の箇所の最初に「アブラムが九十九歳のとき」とあります。これは彼が最初に神から、あなたに子孫を与え祝福する、あなたを祝福の基とする、と言われた75歳から、実に24年の歳月が流れたということです。ふつう24年間も何も起こらなかったら、それは嘘だった、信じたことが間違いだったとなると思うのですが、そうではないし、そうならないのが、信じて生きるということなのです。
もちろん、この24年間、アブラムに何も神の恵みの経験がなかった訳ではありませんでした。様々な人生の出来事、嬉しいことも、辛いことの中にも、神はおられたし、神がおられなければどうにもならなかったピンチを乗り越えてきたのです。それでも、アブラムも人間ですから、当然、神は本当におられるのか、私を助けてくださるのか、ということを真剣に考え、心の葛藤を抱きつつ、歩んだと思います。けれども、アブラムの経験した人生は、そしてこれは他のキリスト者の経験でもありますが、神は本当に生きておられ、この私と仲間を導いてくださる。それゆえ、信仰生活は素晴らしい冒険であり、人生の旅であるということです。
全能の神(エル・シャダイ)
1節で「全能の神」とはエル・シャダイというヘブライ語です。エルは神ですが、このシャダイというのは、実は語源として何を指しているのかよくわかっていません。山という意味の語に由来しているとも言われています。しかし、従来から訳されてきたように「自分で何でもできる」という意味として推測され、「全能」と理解されて来たことは確かに文脈にも良く合致しています。聖書の中に、神のお名前について、いくつかの表現が出てきます。創世記では、まずエロヒーム、これは「神」と訳されます。そしてヤハウェ、これは「主」と訳されています。この名称が中心ですが、他にも別の名前で呼ばれたりしています。
たとえば、「いと高き神」(14:18〜20)、ヘブライ語ではエル・エルヨーンです。前後関係から理解すると、天と地、この世界すべてを創造された偉大な神という意味でしょう。前の章で見ましたが、女奴隷ハガルの信仰の言葉から出た表現でエル・ロイと神を呼びました(16:13)。これは、私を見てくださる神、私を顧みてくださる神という意味でした。日本では「名は体を表す」と言われていますが、その通りです。聖書の中に数多くの神への呼称や表現があるのは、それほど神が大きな存在であり、一つの言葉で決して収まらないお方であるからです。私たちの人生の様々な経験において、神がどんなお方であるのかを、言葉で表すことがまさに賛美そのものです。信仰生活の醍醐味は、このように神というお方についての新たな発見です。こういう方であったのだということを私たちがあらためて知ること、経験すること、味わうことなのです。
「わたしの前で歩み、全き者であれ」
その素晴らしい神が、ここでアブラムに命じられるのです、「わたしの前で歩み、全き者であれ」と。文語訳では「汝我前に行みて完全かれよ」(なんじ、わがまえにあゆみて、まったかれよ)で、音の響きが良くて、私は今まで良く口ずさんで黙想して来ました。わたしの前で歩めというのは、言葉通りに訳すと「神の御顔の前で歩き回りなさい」となり、何か宗教的な戒律に従って生きると言うことではないことがわかります。むしろここで命じられているのは、あなたの人生が神であるわたしの御前にあり、わたしが愛の眼差しで見ているのだから、かけがえのない一回きりの人生というあなたの時間を、喜びと感謝とをもって、生き生きと駆け回るようにして進みなさい、ということです。ですから、「全き者」というのは、道徳的にパーフェクトな者という意味ではなく、神との交わり、ご人格を持った神との関係性を大事にしながら、御前に傷のないものであるように努めていく生き方をせよ、ということです。
2,神は新しい名前を与えられました(3〜8、15〜16節)
次に注目したいことは、新しい名前がアブラムに、サライに与えられたことです。アブラムに対しては、もうあなたはアブラムではない、これからはアブラハムだ、と宣言され、妻のサライに対しては、これからはサラと呼ぶように命じられます。アブラムは、高き父親のような意味でしたが、子孫が増え広がることの約束を踏まえて、多くの人びとの父となるという意味で、アブラハムになりました。サラの方もプリンセスの意味となりました。どちらも語源的には詳細に説明することは難しいと言われています。しかし、大切な点は、神から新しい名前を彼らが受けたということです。
新しい名前をもらうことは、そこに新しい創造の御業が起こっているということの表現です。新しい名前は、これまでの自分ではない、新しい本当の自分、神が意図された真のあなた自身として生きるために、名付けられるのです。アブラハムには、これからは多くの者の父になるのだ、と自分の名前が変わったことで、神の祝福の約束と使命に対しての強い自覚が生じたことでしょう。サラも同じであったと思います。主イエスも命名されています。「イエスはシモンを見つめて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。』」(ヨハネ1:42)。信仰の回心や神からの使命を受けた彼らは、神から新しい名前と新しい人生を与えられました。ルソーは「人はいわば二度生まれる。一度は生きるために、二度目は存在するため」と言いましたが、信仰が示す二度目の誕生とは、神との出会いを通して新しいいのちに生きるための誕生です。