「断食についての問答」

マルコの福音書 2:18-22

礼拝メッセージ 2020.8.23 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


断食をしないイエスとその弟子

 断食は旧約聖書においても言及されています。悲しみの表現として書かれていることが多いようです。また、レビ記16:29(贖罪の日)の「戒める」あるいは「身を慎む」の内容が断食ではないかと考える人たちもいます。イエスの生きた時代のユダヤ教において、断食は祈り、請願、悔い改め、贖罪と結びつき、敬虔な習慣として守られていました。
 イエスとその弟子たちは断食を行っていなかったようです。そこで人々がやって来て、弟子たちに質問をします。しかし、この質問は単純に理由を聞いているよりは、ある種の非難の意図が隠されているように思えます。


イエスの返答

 それに対して弟子ではなく、イエス自身が答えます(これも2:17と同じ)。婚礼の披露宴をしているときに、何も食事をしないことなどありえません。宴(うたげ)とは、招待した者と招待された客たちが食べて飲んで楽しむときです。実際、聖書にはイエスが様々な人々と食事をした記事が数多く記されています。なぜ、イエスはこのような婚礼や宴を譬えにして断食について否定的に語っているのでしょうか?イエスが語る福音が喜びの知らせであることを強調しているように考えられます。断食は敬虔な習慣であるとともに、悲しみの表現でもありました。社会から見捨てられた人々が神によって再び見いだされ、その祝福を経験します。人々は何かに困ったとしても助け合って生きていくことができます。そこに本当の喜びを見出すことができる、それがイエスの語る良い知らせであり、神の国(神の支配)のメッセージです。ここで但し書きが記されています。断食すべき日が来るというのです。婚礼の主役である花婿が取り去られる日であり、悲しみの日を象徴しています。ここではメシアの死(イエスが十字架で殺されること)を暗示していると解釈されてきました。そして、キリスト教会が断食の習慣を持っていることの根拠の一つとされています。


古い物と新しい物

 21節からは、突然のように、古い物と新しい物とが互いにうまく適合しないことが比喩として述べられています。文脈から言えば、断食と宴との対比を扱っています。まださらされていない新しい布切れを古い服に縫い付けたりはしません。そんなことをすると、古い服は再び破れてしまうでしょう。古い革袋の中に新しいブドウ酒を入れたりはしません。新しいぶどう酒は発酵がきつく、古い革袋はその圧力に耐えることができなくなり、破れてしまうからです。


祝祭のともなる喜び

 近代が始まるまで多くの地域では、この世界の真理は昔に示されていると考えられていました(近代では新しいことに真理があることを積極的に認められているのとは対照的です)。そうでなければ、昔の人は何も真理を知らずに生きていたことになるからです。ユダヤ教もキリスト教会も同じように、すでに過去に神の関する真理は示されていて、その真理や事柄は人々が生きたそれぞれの時代に過去から影響していると考えていました。新しい事態が起きたとしても、それが真理であるとするならば、それはすでに過去に起きたことの繰り返しであるか、あるいは過去の出来事によって指示されているとされていました。イエスがメシアであることを証明するのに旧約聖書から引用されるのは、そのような過去に対する考え方があったからです。実際、イエスは本日の聖書箇所で過去自体を否定はしてはいません。
 しかし、神の支配の到来が過去の習慣や考え方を凌駕してしまうほどの喜びであることをイエスは述べます。イエスが過去の伝統そのものを否定していないとしても、その伝統が良い知らせによってもたらされた喜びを邪魔したりするならば、それをイエスは受け入れようとはしません。断食を強制することで、人々が楽しもうとしている交わりが壊されるとするならば、イエスにとればそれは認められないのです。イエスが見ているのは、宗教的な伝統を繰り返すことで自分の正しさを立てて、それを他人にも強制することではありません。人々が神とともに生き、人との交わりの中で生かされていくことです。そこにイエスは喜びを見出し、罪人との交流を自ら楽しんだのです。
 現代の教会において、婚礼に代表される祝祭という考え方は忘れられているように思えます。罪や悪の克服しようとする姿勢は大切ではあっても、それがいつの間にか、神の名を借りて自分の「正しさ」を自分にも他者にも押し付けているだけのことは多いようです。むしろ、イエスが見たような、共に集まって互いを大切にする喜びを私たちも経験したいのです。