「数えてみよ主の恵み」

詩篇 103:1ー22

礼拝メッセージ 2017.12.31 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,主をほめたたえることは、主からの恵みを忘れないことです(1〜2節)

主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな

 日本では、一年の終わりに差し掛かると忘年会がいろいろなところで持たれますが、忘年会とは、一年の苦労や嫌なことを忘れるために催す宴会ですが、聖書はむしろ、忘れてはならない、と言います。主が与えてくださった事々や恵みの一つ一つを覚えて、感謝を捧げ、心からほめたたたいと思います。
 十人のツァラアトに冒された人たちが、イエスのもとに来て「イエスさま。どうぞあわれんでください」と懇願しました。彼らは帰って行く間に、全員が癒やされました。しかし、その内の一人だけが神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏し感謝したのです。それでイエスは言われたのです。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。」と(ルカ17:11〜19)。十人中の九人は、主の良くしてくださったことを忘れてしまったのでした。D.ボンヘッファーは次のように言っています。「信仰と服従とは、回想と反復によって生きる」ことであり、「回想は現在の力となる」と言っています(『ボンヘッファー説教全集3』)。この回想とは、神が私のためにしてくださったことを思い起こすことです。

この詩篇103篇について

 聖書学者デレク・キドナーは「詩篇103篇と104篇は、詩篇という銀河の中の、双子の一等星である」と言っています(Boice『Psalms』)。確かに、読めば読むほど、喜びが与えられ、信仰の力を受けることのできる詩篇です。本日の一部礼拝で歌う新聖歌172番「望みも消え行くまでに」は、原歌詞の題名はCount your blessings(カウント・ユア・ブレッシング)と言いますが、明らかに、この詩篇103篇から生まれた賛美曲です。二部礼拝では、「主は良いお方」という賛美が歌われますが、このワーシップソングもやはり詩篇103篇を歌った賛美となっています。


2,主をほめたたえることは、主を祝福することです(1〜2,20〜22節)

 この詩篇の最も重要なキーワードは、「主をほめたたえよ」(1,2,20,21,22節)であることがすぐにわかります。新改訳や邦訳のほとんどは「ほめよ」「たたえよ」と訳されているのですが、英語訳では、多くがBless the Lord(ブレス・ザ・ロード)と訳されていて、ダイレクトに言えば「主を祝福せよ」となっています。日本で長く働かれたカトリックのバルバロ神父の訳では、まさにその通りの「主を祝せよ」と訳されています。確かに、原文のヘブライ語では、バーラク(祝福する)という言葉が使われています。神が人間を祝福するというのはわかるのですが、人間が神を祝福するとはどういうことなのか、改めて調べてみると、『旧約聖書ヘブライ語アラム語辞典』(Koehler&Baumgartner)に、バーラクについて、次のような説明がありました。「神を祝福すること=神が特別な力の源泉であることを宣言すること=神を賛美すること」。この説明を踏まえて、どのようにして私たちが主を祝福(あるいは、たたえることが)できるのか、と言えば、第一に、主を賛美する歌を歌うことによって、それができます。第二に、詩篇のように、主をほめたたえる祈りの言葉を主に語ることによって、それができます。第三に、主の素晴らしさを他の人々に宣べ伝えることによって、それが可能となります。


3,主をほめたたえることで、心の視野が広げられます(1〜5,6〜14,15〜22節)

主と私との関係で、主をほめたたえる

 1〜5節で、「私」という一人称の表現がありますが、それ以降は、最後の22節の締めくくりで「わがたましいよ」が出て来るだけです。そしてさらに、よく読むと、一人の「私」が自分自身に向かって「あなた」と二人称で呼びかけていることに気づきます。しかも、この詩篇は、「私のうちにあるすべてのものよ」とも言っています。簡単に言えば、自分のすべてで、ということになるでしょうか。主をほめたたえることは、自分の一部分を捧げて、なされるものではなく、自分の思い、考え、知識、能力、精神、体力、時間、その全部でもって、神を賛美することなのです。人生を丸ごと使って、主をほめたたえるように、この詩篇は教えています。C.H.スポルジョンの『ダビデの宝庫』(The Treasury of David)という詩篇講解ではこう勧められています。「あなたの良心が変わらない忠誠心を持つことによって、主をたたえるようにせよ。あなたの判断が純粋で聖い考え方をすることによって、主をたたえるようにせよ。…あなたの欲求がただ主の栄光を求めることによって、主をたたえるようにせよ。あなたの記憶が主の恵みの数々を忘れぬことによって、主をたたえるようにせよ。」3節から6節で、主がどんなお方であるのかを詩人は賛美しています。原語では六つの分詞形で表されています。「(咎を)赦す方」「(病を)癒す方」「贖う方」「冠をかぶらせる方」「満たす方」「(義を)行う方」の六つです。主が、自分にとってどんなお方であるのかを考え、黙想して、主をたたえましょう。

主とイスラエルとの関係で、主をほめたたえる

 もし、神と私個人の関係の中だけで、信仰を理解しているならば、それは一部分しか見ていないということになります。しかしこの詩篇を見ると、7節で「モーセ」「イスラエル」のことが歌われています。神は、私の神であると同時に、私と同じように救われ、守られ、導かれている多くの人々、歴史的には、イスラエルの民の神であり、主であるということです。

主と全被造物との関係で、主をほめたたえる

 15節から22節では、イスラエル民族のことだけではなく、すべての人間について語り、その存在の弱さや儚さを述べて、創造主の前に生きる一つの被造物であることを明らかにしています。さらに詩人は「御使いたち」や「すべて造られたものたち」をも、その視野に入れつつ、主をほめたたえています。主を賛美することは、私という個人だけのことに留まるものではなく、全世界、全被造物にまたがるような壮大なものであることが明らかにされています。全被造物は、当然のこと、天に王座を持っておられるお方に向かって、ほめたたえ、賛美を捧げるのです。そしてその列の中に、私たち一人一人もいるのです。