「救われた者の感謝の歌」

詩篇 9:1-20

礼拝メッセージ 2023.1.15 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.義の審判者に、心を尽くして感謝を(1-6節)

 詩篇8篇は、脆くて小さな人間を壮大な月や星と比べて、主の栄光をたたえています。一方、この9篇は、〈自然〉ではなく〈歴史〉の中で、人間の儚さや脆さ、そして公正なさばきをされる主の確かさを歌っています。
 9篇はいわゆる〈いろは歌〉と呼ばれる詩篇で、ヘブライ語アルファベットが文頭に組み入れられています。続く10篇も同様であることや、10篇には表題がないことなどから、この2つは本来1つのものであったと考える立場も多くあります。表題の〈ムテ・ラベン〉が表す意味は分かっていません。
 1・2節は、主への感謝と喜びを、あふれ出るように賛美する詩人の姿が目に浮かぶような、希望に満ちた宣言です。「心を尽くして」とは、口先だけではなく、過去の出来事のひとつひとつを神の力・愛・救いのみわざとして覚え、語り告げるということです。
 この詩篇が表題の通りダビデのものとするならば、ダビデ王がイスラエルを再統一して、外国からの圧迫にも屈することなく、国を安定させた時に歌われたものであることが想像できます。「私の敵は退くとき 御前でつまずき ついえます(3節)」。勝利が神によるものであることを強調し、ほめたたえています。そして、その勝利は、主が義の審判者として王座についておられ、詩人の正しい訴えを聞いてくださったからだと言います(4節)。これまで何度も、不正な権力によって圧迫され、苦しんできたのでしょう。
 しかし、主は「国々を叱り(5節)」、悪しき者にさばきをくだされました。詩人の過去の経験、あるいは、イスラエルの民の歴史におけるこれまでの主みわざが思い出されているのだと思います。人の目に見えて分かりやすいような権力は、永遠ではありません。詩人は、興っては倒れていった国々の歴史を俯瞰しつつ、この世界の主権者による公正なさばきに感謝をささげています。


2.虐げられた者を救う公正なお方(7-14節)

 「とこしえ」「さばき」「堅く」「義」「世界」という表現から、主のさばきが、悪しき者とは異なり、徹底的に義と公正を基準にされていることが示されています。
 そして、主のさばきの中心は、不当に虐げられた者、苦しんでいる者の救済であると言えるでしょう(9節)。「砦」とは、高い塔、要塞。主は悪しき者によって弱い立場にされた者を積極的に守られます。ダビデは生涯、幾度となく虐げられる経験をしました。若い頃はサウル王に、年を重ねてからは息子のアブシャロムによって苦しみました。しかし、「主よ あなたを求める者を あなたはお見捨てになりませんでした(10節)」と告白しています。苦しみを経験したうえで、「主だけはお見捨てにならなかった」と証ししているのです。
 「シオンに住まう(11節)」とは、天にある神の宮の地上的表現で、神殿のあるエルサレムが聖なる山と呼ばれました。「死の門(13節)」と「娘シオンの城門(14節)」は対比でになっています。主のあわれみによって、絶望の死の門から引き上げられ、母なるシオンの娘たちの門で、主の救いを喜び歌うようになると言います。
 詩人の「主よ 私をあわれんでください」という祈りには、主は「貧しい者の叫びをお忘れにならない(12節)」という確信があります。私たちも、不正や罪によって虐げられたり、苦しめられたりする経験があるかもしれません。社会問題に目を向けても、不当な扱いを受けて泣き寝入りするしかないような人たちがいます。もちろん、それらがそのままで良いというわけではありませんが、現状を変えたいと願っても、簡単には変えられないことがあります。しかし、主はかならず公正なさばきによって、弱い立場にある者を救済してくださるという確信には、何にも代えがたい希望があります。私たちは、この世界の唯一のさばき主である主だけを恐れる者でありたいと願います。


3. 主の御前における人間の無力さ(15-20節)

 主の公正なさばきによって、虐げられていた者たちが救済される一方、虐げていた側の悪しき者たちにもさばきが下されます。どれほどの権力を手に入れても、この世界のさばき主の御前には、あまりにも儚く、脆い存在であることを思わされます。それも、悪しき者の滅びは「自分で作った穴に陥り 自分で隠した網に足を取られる(15節)」「自分の手で作った罠にかかった(16節)」とあるように、自滅していく姿によって表現されています。
 そして、詩人は「主よ 立ち上がり 人間が勝ち誇らないようにしてください(19節)」と言います。これは詩人の祈りであると同時に、主からの警告でもあると言えるのではないでしょうか。私たちは、身の程をわきまえなくてはなりません。私たち人間は、主がお創りくださった尊い存在でありながらも、主の御前においてはただ、人間にすぎないものです。
 私たちは本当に恐れるべきお方を決して間違えてしまわないようにしたいと思います。主を恐れ、主が願われる公正と義の道を歩んでいきましょう。主のみこころを願えば願うほど、この世界の不正に苦しむことになるかもしれません。しかし、主はかならず公正なさばきによって、虐げられいている者・貧しい者を救済してくださいます。私たちはそのことに信頼して、主の願われる公正を行うことに、心を注いていきたいと思います。