ダニエル書 6:19-28
礼拝メッセージ 2024.10.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,生ける神、あなたが仕えている神
生ける神
ダニエルが獅子の穴から守られたというこの出来事が聖書の中に収められ、語り告げられてきたことの理由、そこに込められたメッセージは、いったい何でしょうか。ダレイオスがダニエルに語りかけたことばがこの章全体の重要なメッセージと言って良いでしょう。「生ける神のしもべダニエルよ。おまえがいつも仕えている神は、おまえを獅子から救うことができたか」(20節)という王のセリフです。これはこの書のことばを聞く人、読む人すべてに語りかけられている問いです。ダレイオスのこの呼びかけは、聞き方によっては、信仰者への挑戦的な問いにも取れますし、あるいは信仰の探求とも捉えられ、もしその答えが「はい」であるなら、信仰の告白にもなります。
まず、目を留めたいのは、神というお方がどう表現されているかということです。一つ目は「生ける神」です(20、26節)。「生きている」ということは現実に生きて働かれる神であるという意味です。生きていることの反対は、死んでいるということで、立つことも歩くこともない、物言わぬ命無き偶像とは違っているという意味です。本当に存在され、実体のある神ということを、獅子の穴にいても平気だったダニエルを目の当たりにして、王はそれを認めたのです。同表現の他の箇所を参照すると(Ⅰサムエル17:36、Ⅱ列王19:4、イザヤ37:4等)、「生ける神」ということばに続いて、「(生ける神を)そしる」ということが複数出てきます。ダニエル書の文脈も同様ですが、神は生きておられるから、神をそしる者たちを知り、必ず正しいさばきをされるということが含意されています。ちなみにダニエルという名前の意味は「神は裁き給う」です。
あなたが仕えている神
二つ目に「おまえがいつも仕えている神」という表現です。これはダニエル書に繰り返し出て来る表現です。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは言いました。「私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。」(3:17)。6章には16節と20節で「おまえがいつも仕えている神」とダレイオスが語っています。ここで「おまえが信じている神」と王は言わず、「仕えている」と表現したことは大切なことです。「信じている」というのはその人の心の中のことで、外側からは見えずわからないことですが、「仕えている」というのは周りからもその信仰態度が見えて認識できるということです。ダニエルが神に仕えていることは誰の目にも明らかでした。彼が神を礼拝し、祈り、奉仕していたからです。敗戦国の捕虜として連れて来られたバビロンという異教の大都市にあっても、ダニエルの神への信仰はその最初から決して揺るぐことはなく、幾度も危機と困難を乗り越えて来ました。ダニエル書の物語部分はこの6章までなので、おそらくダニエルという人物の晩年の最大の危機がこの出来事だったのでしょう。生ける神に仕えることは、本当に大きな力であること、そこには強さと勇気があることを、ダニエルは私たちに教えています。 このようにあからさまな悪意を抱き、陰謀をめぐらし、実行するという大臣や太守たちの存在が描かれている一方で、他方、ダニエルに対して一見好意を持ち、彼を心配する王のことが出てきます。この人物は「メディア人ダレイオス」と記されています。この「ダレイオス」とは誰なのか、ダレイオスという名前は、ペルシア帝国の三代目の王の名前ですが、時代的に合致せず、「メディア人ダレイオス」という名称は聖書以外には見られません。ダレイオスが誰を指すのかについて三つの異なる見解があります。第一はダニエル書が時代錯誤をしていて、この王は想像上の人物とする説です。第二の見解は、ペルシアの王キュロスの将軍であった「ウグバル」という人を指すというものです。彼は一年間だけバビロンの町を治めたことがわかっています。第三の見解は、「メディア人ダレイオス」はペルシアの王キュロスの別名であり、キュロス自身のことを指すという理解です。この見解に立つ場合、28節は「このダニエルは、ダレイオスの治世すなわちペルシア人キュロスの治世に栄えた」と理解します。明確に断定できませんが、第二か、第三の見解が良いと思います。
2,神は、あなたを獅子から救うことができたか
信仰による報いの経験
「神は、おまえを獅子から救うことができたか」ということに対して、この書はどう答えているでしょうか。「獅子」の部分に自分の苦難や危機の内容を当てはめて考えても良いでしょう。「神は、あなたを◯◯から救うことができたのか」というように。しかし、長年に渡り神に仕えていても、ダニエルのようにではなく、最期は獅子に食い殺されて殉教した人もたくさんいました。旧約時代にも、初代教会の時にも、その後も、剣で刺されたり、猛獣の餌食にされた殉教者たちは数知れずいたでしょうし、この21世紀までに一体どれだけ多くの血が流されて来たことでしょう。では、獅子の穴からの救出は、今日の私たちにとって、非現実的空想、ファンタジーなのでしょうか。決してそうではないのです。
ここで覚えておくべきことは二つあります。一つは、「神は、…獅子から救うことができたか」ということについて、信仰者であるなら、程度や内容はいろいろとしても、「神は確かにあの時、あのことから私を救ってくださった」という実体験があると思います。信仰は、人生における冒険によく例えられます。さまざまなことが起こり、危ない目にも遭います。でもその都度、神は助けてくださいます。それが超自然的な奇跡でなかったとしても、人の目からは偶々そうなって幸運だったように見えても、実は神がその中に働いておられたゆえであると、信仰者は気づき知っています。 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブル11:6)。信仰には、確かに憐れみ深い神からの導き、助け、報いということが現実にあります。信仰者は、それを祈り求め、期待して良いし、これまでの人生における主の奇しいお働きを思い巡らし、認めなければならないのです。黒人霊歌に「ダニエル」の歌があります。そこに「主はダニエルを救ったではないか。それなら、どうしてすべての人を救わないことがあろうか」と歌っています。
キリスト預言とキリスト経験
二つ目に、「神は、おまえを獅子から救うことができたか」ということについての答えとして、もう一つの次元があることも、この書は明らかにしています。それは、神の国、永遠という尺度で、ものを見るということです。それは3章17節から18節の三人の表明した「神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。…しかし、たとえそうでなくても」ということです。この「たとえそうでなくても」の続きは「私たちは揺るぎません。大丈夫です」ということです。なぜ、そう言えるのか、それは「死してなお生きる」という永遠の救いの保証を持っているからです。それはこの書が示す「賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる」(12:3)という死後に続く世界があるという未来の確信です。
もう一つのことは、この獅子の穴からの救出は、キリスト預言であり、ダニエルはそれと知らず、この危機的事件を通して、彼の後に来られるメシアの姿を体現することになったということです。ダニエルが大臣たちの妬みによって殺害が計画され、実行されたことは、イエスが「長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺される」(マルコ8:31)と言われた状況と似ています。ピラトはイエスに罪を認めず釈放しようと試みたが圧迫に負けて十字架につけたように、ダレイオスもダニエルを救うことはできませんでした。「獅子の穴」は、イエスのお体が納められた墓のように、封印されました(ダニエル6:17、マタイ27:66)。私たち主に仕える者、求める者も、キリストにつく者すべては、苦難を通してでさえキリストを証しするように定められているのです。