「救いへと働く神」

ルカの福音書 1:5ー25

礼拝メッセージ 2026.2.22 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,ヨハネの荒野出現前から神は救いの計画を進められる

 今日の箇所は、バプテスマのヨハネの誕生に関する内容です。四つの福音書すべてが救い主イエスが来られる前のヨハネの出現を語っています。言い換えると、この人抜きにしてイエスの福音を語ることはできないということです。神は救いのご計画を進めるにあたり、ヨハネをメシアであるイエスの先駆け、道備えをする人物として選ばれ用いられたのです。ルカは全福音書の中で唯一、彼がどんな家庭に生まれた人なのか、またイエス様との関わりについて記しています。
 ルカが聖霊に導かれて私たちに教えている第一のことは、このヨハネが荒野に現れて、悔い改めのバプテスマを授けるようになるもっと前から、神はすでに救いのご計画をもって御業を始めておられたということです。1章5節にあるように「ユダヤの王ヘロデの時代」から、神は人々を救おうと働いておられたのです。このヘロデとはヘロデ大王のことです。紀元前37年から4年までユダヤを治めていたことが分かっているので、おそらくその治世の終わり頃近くにこれから描かれる出来事の背景となっています。


2,希望の見えない世界の中で神は救いの計画を進められる

 このヘロデ大王はユダヤ人ではなくイドマヤ人であることから、当時国内で反感を持つ人々も多かったと思いますが、とても高い能力をもった人物でした。大国ローマと良好な関係を保ち、国内では多くの建設事業を進めました。たとえばカイザリヤを港湾都市として開発し、難攻不落のマサダの要塞を築き、エルサレム神殿を大改築しました。人間的に見れば、その政治的手腕は高く評価されるべき人でしょう。しかし彼は自己保身や利益のためには妻や子どもたちさえ殺してしまうような残虐な人でした。マタイの福音書にあるようにベツレヘムの幼児大量虐殺を命じたのも彼です。
 こうしたことからイメージされるように、このヘロデによって治められていた時代(その後の時代も含めて)は、世の中的にはうまくいっていたかもしれませんが、霊的には荒廃した社会でした。神を恐れて正しく生きようとしている人々にとって息苦しく暗黒の時代でした。神によって建てられ、導かれてきたイスラエルが、今はローマに支配され、ローマの傀儡として非ユダヤ人ヘロデによって治められていたのです。多くの人々にとって信仰は、全く文化や習俗的なものに過ぎず、力のない形式主義、律法主義的なものとなっていました。しかし、神は彼らと世界を見捨ててはおられなかったことを、この福音書は冒頭で語っているのです。神は希望の見えない時代の中にあって、目立たず人々の目に隠れたところで、すでに働いておられたのです。


3,悩みを抱える普通の人々の間で神は救いの計画を進められる

ザカリヤ夫婦の悩み

 神が目を留められたのがザカリヤという祭司、そして妻エリサベツでした。彼らは、「山地のあるユダの町」(39節)で暮らす老夫婦でした。当時、祭司職を持つ人は大勢いて、この聖所に入って祭壇で香をたくことは、一生に一度あるかないかのことだったそうです。それ以外の祭司の務めもいくらかあったでしょうが、それだけで暮らしていくことは難しく、おそらく彼らは貧しい生活を送っていたと考えられます。
 ザカリヤ夫妻は、「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落ち度なく行っていた」のでした(6節)。このあとしばらくすると登場するマリアとヨセフ、シメオン、アンナといった人たちと同様に、この霊的暗黒時代にあっても正しく敬虔で、イスラエルが贖われる日を待ち望んで祈っていた人々だったでしょう。
 しかし、彼らにはとても辛くて悲しい悩みがありました。それは子どもがいないことでした。エリサベツは不妊の女性で、二人ともすでに高齢になっていました。子どもがいないことは、今日の世界でも、その悩みと苦しみを抱えている人たちは多くおられると思います。けれども、この二千年前のザカリヤ夫婦の生きていた時代と文化においては、例外なく誰もがそれを不幸とみなすような辛いことでした。当時は社会保障などがないため、子どもや子孫がいないとその後の生活も大変ですし、さらに宗教社会の中では、子どもがいないことは神の恵みから外れているように見られたのです。ここで彼らが祭司夫婦で代々その家系であったことも、心理的負荷を大きくしたと思います。
 聖書には、この不妊の女性から奇跡的に子どもが与えられる話が多く出て来ます。創世記のアブラハムとサラ、イサクとリベカ、ヤコブとラケルや、士師記のマノアとその妻、サムエル記のエルカナとハンナなど、すべて神の憐れみによって子どもを授かったのでした。子どもが与えられないことは当時の社会の中での悲劇の象徴でした。エリサベツもザカリヤもその状況が「恥」と見られていたことを語っています(24−25節)。私たちも別のかたちで、たとえば家族内でのいろいろな悩み、困ったことや不都合なことを背負っているかもしれません。

神の御業は全世界的にも個人個人にもなされる

 けれども、そのザカリヤが一生に一度の機会を得て、神殿で奉仕を務めているときに、御使いガブリエルが突如現れて、こう語りました。「恐れることはありません。ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。」(13節)。失望してあきらめていた子どもを持つことがこれから叶えられるというのです。
 しかもそのことばには続きがあり、驚くべきことにその子どもは神より使命を託された特別な存在で、「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせる」というのです(16節)。残念なことにザカリヤはこの預言のことばを、そのとおりに信じて受け取ることがすぐにはできず、一時的な罰として物が言えなくなってしまいます。
 エリサベツは妊娠を通して、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と告白するに至りました(24−25節)。彼ら夫婦にとって、息子ヨハネは「あふれるばかりの喜びとなり」ました。
 神の救いの恵みの御業は、もちろん神の民全体に対する大きな働きで、それは言わば宇宙的、世界的規模のものです。しかし同時にここに示されているように、それは全く普通の人たち、田舎の平凡な老夫婦の中になされたことでもありました。私たちも両方の視点をもって、神の救いのご計画を見ていく必要があります。宇宙的、全世界的に神がなさっていくご支配がある一方で、同時に小さな私たちのうちに神は目を留め、恵みの御業を行ってくださいます。「すべての日々において、主の御前で、敬虔に、正しく」(74−75節)歩んでいきましょう。