ヘブル人への手紙 12:25ー29
礼拝メッセージ 2025.12.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,語っておられる方を拒まないように気をつけよう
神は私たちに語りかけるお方
著者は18節から24節において、旧約時代のシナイ山でのことを例に出し、私たちは喜びと祝福のシオンの山に近づいていることを語りました。続く25節からは、その流れから警告のことばを発しています。これまで説明してきましたように、この書の宛先の読者たちは苦難や迫害に遭遇して、信仰を放棄したり、また旧約律法に逆戻りする人たちがいたのです。昔も今も信仰を持つことも、また持ち続けることも、そこには闘いや困難があります。
特に、ここで警告されていることは、「語っておられる方を拒まないように」(25節)ということです。この表現から最初に気づくことは、神は私たちに語りかけられる方であるということです。この手紙は最初からそれを強調してきました。1章1節から2節で、「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子によって私たちに語られました。」と記していました。神は私たちとつながりを持つことを大切にされ、「多くの部分に分け、多くの方法で」語られます。そして今や、御子イエス・キリストを通して私たちに語りかけておられるのです。
来週はクリスマス礼拝です。神のことばロゴスそのものである方が、肉体をもってこの地上にお生まれくださいました。使徒ヨハネは記しています。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた」(ヨハネ1:18)のです。
みことばを聞こう
12章25節以降に戻って見ていくと、そこで比較して述べられているのは、過去モーセが地上において、神から命じられたことばを律法として人々に語り、教えたことです。その後、モーセに続いて多くの預言者たちが、神のことばを語り続けてきたのです。しかし、旧約聖書の歴史を見れば、それを聞いたイスラエル、神の民はそれを拒んできたことがわかります。その結果、彼らは神からの罰や報いを受けなければなりませんでした。神のさばきから彼らは逃れることはできなかったのです。
そういう地上から発せられた神のことばでさえ、そうだったのだから、天からの御声に対してはなおさらのことであると著者は語気を強めて語ります。つまりここでの「天からの警告」とは、イエスを通して語られたみことばです。天からの直接の御声と同じ、イエス・キリストからの語りかけに対して、あなたがたが背を向けてしまうなら、その罰から逃れる道は全くありませんということです。25節の警告をもし真剣に受け止めるなら、私たちは積極的にみことばを聞くために、行動するように努めなければなりません。聖書を開きましょう。日々、神のことばに聞きましょう。そして、頭で理解するだけで終わらず、生活の中でみことばを実践しましょう。また、みことばを他の人たちと分かち合いましょう。
2,神のことばを疑わず、確信を持ち続けよう
著者が主にあって語る第二の命令は、神のことばを信じ続けることです。ここで、「揺り動かす」ということばが五回出てきます。「揺り動かす」と訳されたことばは、ギリシア語辞書によると「何かを激しく、しばしば乱暴に前後に素早く動かすこと」(『ロウ&ナイダ新約希英辞典』)だそうです。26節「あのとき御声が地を揺り動かしました…」とは、引照箇所にありますように、出エジプト記19章18節「シナイ山は…山全体が激しく震えた」ときのことのようです。それがどんなに恐ろしいものであったのか、想像もつきませんが、おそらく巨大地震に見舞われたように、山が崩れ落ちてしまうような激しい揺れがあったのでしょう。
しかし、26節後半から27節にはハガイ書2章6節が引用されて、未来に起こる「揺り動かし」が「もう一度」来ることを明言しています。そのときは、地面が揺れるだけではなく、天も揺れるようなことが起こると言います。これが一体どういうことなのか、著者は多くを語っていません。ペテロの手紙第二の記述が参考になるかもしれません。「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(Ⅱペテロ3:10)。また、「しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(同13節)と記されています。
新しい天と地が現れるとき、「造られたものが取り除かれる」(ヘブル12:27)ことになります。そこで「揺り動かされるもの」と「揺り動かされないもの」とが明らかになります。言い換えれば、来るべき大いなる日には、この地も天も揺さぶられて取り除かれてしまうということです。しかし、私たち主に信頼する者たちは揺るがされることのない新しい秩序に属しているのです。ですから、この書が示していることは、この世の出来事や知らせに私たちは恐れで満たされることはないということです。政治的不安定、社会的圧力、経済的危機、肉体的苦難、道徳的退廃があることを感じたとしても、私たちは絶望する必要がないのです。神のことばを疑わず、確信をもって歩みましょう。
3,敬虔と恐れをもって礼拝しよう
三番目の命令は、信仰者の生きる態度に関するものです。28節を見ると、「このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか」とあります。ここの意味は、もうすでにその御国を受けているという現在を示し、その約束を私たちはちゃんと手にしているということです。だから、「感謝しようではないか」と命じています。
揺り動かされない御国を受けているという信仰の確信は、私たちを傲慢や自信過剰に陥らせるものではありません。神のこの偉大な恵みを軽視したり、自分の力で獲得したかのように思い込んではならないのです。むしろ、へりくだって、神の御前に感謝の心をもって日々を歩むようにということです。
もう一つのことは「敬虔と恐れをもって、神の喜ばれる礼拝をささげる」ことです。礼拝や奉仕することが大切なことは当時の人たちも私たちもよくわかっていることです。ですので、ここで注目すべきは「敬虔と恐れをもって」というところです。聖書は明確に神を恐れることの大切さを教えています。続く29節で「私たちの神は焼き尽くす火」であると言っています。なぜ、主を恐れなければならないのか、それは私たちの神が焼き尽くす火のような方であるのだからという意味です。この感覚の欠如が、高慢な心を生み、神への反抗心と罪をもたらしてしまいます(申命記10:12−13参照)。感謝と恐れをもって主に仕えましょう。
