「手の萎えた人を癒す」

マルコの福音書 3:1-6

礼拝メッセージ 2020.9.6 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


人々の思惑

 本日の聖書箇所は、手の萎えた人を癒す物語です。会堂は、ユダヤ教徒が神に礼拝する場所です。この時代、安息日に礼拝する習慣がすでにあったようで、人々はそこに集まっていました。イエスも礼拝のために会堂に来ていたのでしょう。そこに手の萎えた人がいました。マルコ福音書はまず、会堂に集まった人々(ユダヤ教の権威者を指すのであろう)の様子を記しています。それは、この奇跡物語の主題が、イエスが行った癒しの奇跡そのものではなく、奇跡をめぐるイエスとユダヤ教指導者との対立であることを示唆しています。人々は、イエスを「訴える」ために、癒しの様子をうかがおうとしていました。つまり、会堂の人々は最初からイエスを拒絶しているのです。


癒しの実現

 人々の予測通りに、イエスは手の萎えた人を癒そうと始めます。そして、人々がイエスを訴える前に、また人々の訴えを制するように、イエスの方から言葉を人々に発します。イエス自身が人々の挑戦的な態度に気づいていたのです。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことか、悪を行うことか。いのちを救うことか、殺すことか」イエスの言葉は律法の神髄を突いています。そこでイエスは人々の反応を無視するかのように、この病の人を癒してしまいます。ここでマルコ福音書は、イエスは怒りと悲しみを持ったことを報告しています。それは、やはりイエスを訴えようとしている人々に向けられていたと言ってよいでしょう。


人々の策謀

 人々がイエスに面と向かって反論した様子は記されていません。イエスに圧倒されたのかもしれません。あるいは、群衆がイエスを支持したのかもしれません。いずれにせよ、人々は安息日に癒しが行われたことを見ながらも、何も言ってはないのです。しかし、会堂でこの癒しを目撃していたパリサイ派の人々は、ヘロデ党の人々と一緒になって、イエスを殺害するために相談を始めています。緊張が一気に高まったことをマルコ福音書は語っています。


安息日の祝福

 何が問題なのでしょうか?癒し自体はユダヤ教においても認められ、大切なこととして受け入れられていたようです。ユダヤ教の指導者たちもイエスに対して、その癒しの奇跡そのものを問題にしているわけではありません。問題にされたのは、癒しが安息日に行われたことです。安息日には労働や仕事をしてはいけない、とされていました。現実には安息日にも人々は活動をしています。中には緊急なこともあったはずです。そこで、何が労働になり、何が労働にならないのか、それを決めるようなことが起きます。しかし、イエスが問題にしているのはそのようなことではありません。イエスは救いそのものを問題にしています。
 そこで、安息日の意義を考えなければなりません。その日は、奴隷である者や日常は休めない者たちが、せめてその日だけでも休むことが認められる日です。社会として、人々が休むことができるような仕組み(システム)を作らなければならなかったはずです。しかし、ユダヤ社会はその休みを個人に押し付け、さまざまな事情でその日に休めない者を罪人とみなしたのです。本来、安息日は人間性の回復の日であり、救いの日です。そのような救いの喜びの日に、病の人が癒されるのは当然であるというのがイエスの考えです。ですが、ユダヤ教の権威者たちはそのようには考えませんでした。安息日はユダヤ教によって重要な日であり、ユダヤ社会全体あるいはユダヤ教徒個々人としてのアイデンティティ(自分に対する祝福)に関わる日でした。それを破ることは、ユダヤ人をやめることであり、神を裏切ることになると考えました。ですから、安息日を守れない人たちは「罪人」と呼ばれたのです。ユダヤ教の権威者は、神が人々を救うために安息日を備えたという意義が意味を失っていました。その意義を知っていたとしても、自己のアイデンティティをより重視する姿勢を採用したのです。イエスを殺そうとしたのは、イエスの考え方を進めていけば、ユダヤ社会が成り立たなくなることを恐れたからです。
 私たちも自分に対する祝福だけを考えてしまうと、神の祝福や救いの意味を忘れてしまうことになります。他の人のためであると言いつも、また神のためであると言いつつも、結局は自分の考えを単に誰かに押し付けているに過ぎないことも多いようです。神の救いと祝福は、私たちの都合ではなく、私たちの考え方を超えて実現していくのです。だから神の恵みなのです。