詩篇 6:1-10
礼拝メッセージ 2022.11.13 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
絶望と救いへの確信
特にこの詩篇は,悔い改めの詩篇の一つと呼ばれています。それは,1節の言葉によります。著者は何か大きな災い・苦しみを経験しています。その内容は記されていませんが,はっきりと述べられていることがあります。それは,その災いや苦しみを著者は主(ヤハウェ)からの罰あるいは,懲らしめとして理解していることです。実際,神の意思に逆らうことをする中で,私たちの信仰のあり方や生活が崩れてしまうことは少なくありあません。因果応報についてどのように考えるべきかを最後に見ていきますが,自ら選んだ道によって(罰としてではなく)責任を取らなければならないことはあるでしょう。
この苦しみの中で,詩篇著者は弱音とも言うべき言葉を吐きます。ヤハウェに対して憐れみを得ること,癒されることを望んでいます。骨と魂が疲れ怯え、心と身体が厳しい状態にあることが述べられています。このような状態が,いつまで続くのか? 早く,ヤハウェの憐れみと癒しがやって来ることを願う言葉です。
ヤハウェが立ち返ることを望む。「立ち返る」は新約では「悔い改め」という意味の言葉として用いられており,神が方向転換することを望んでいます。つまり、苦しみを放置する態度を改めて,救いを実現して欲しいという言葉です。死者について記されています。旧約では,すべての死者は黄泉に下り,文字通りの(神のいない)死の世界に行くと考えられていました。早くヤハウェの助けが来ないことにはわたしは死んでしまう,そのような悲痛な叫びです。死は神への憩いではなく,厳しい絶望として語られています(だから復活の命は希望になります)。
怯えだけでなく悲しみの状態が記されています。ここでは襲ってくる災いが,他の人との関係に起因していることが分かります。他者の無理解,孤独,孤立,人からの責めなどが考えられる。
8節から詩篇の雰囲気は大きく変わり、主からの救いの約束を確信する言葉となります。ヤハウェが著者の願いを聞き入れ、味方となります。弱音を吐いていた者が,自らの救済(憐れみ・癒し)を告白し,敵対する者が敗北する様を見通します。それは,ヤハウェの主権で行われます。著者は自分が無力であることを自覚している様子ですが,それにかかわらず力強い言葉を語ります。
神の厳しさと救い
聖書を読む限りにおいて,因果応報的な考え方は見られます。また,神が怒りを持つこともはっきりと聖書に書かれています。しかし同時に,そのような考え方を否定する言葉も多い。悪を行い,罪を犯す私たちはどのように考えるべきでしょうか? 神の罰を恐れながら生きるべきでしょうか? 神の厳しさをどのように考えるべきでしょうか? 私たちが犯した悪や罪に対する罰としての災いとは考えなくて良いでしょう。しかし、私たちが考えたこと,行ったことに対して神は責任を問うということはあります。それが神の名によって行ったことであっても,あるいは結果が良くても悪くても,神は責任を問います。そこに神の真の救いと厳しさがあります。罪や悪に対して罰を与えることは責任を問うことではありません。罰は厳しいことであり,その教育的な意義はあります。しかし、自分が考えたり行ったりすることに対して責任を負う必要はなくなります。神の厳しさは,私たちを尊重する中で,その尊重のあり方として責任を問いかけます。私たちは誰に対しても文句は言えない,神にも人にも責任転嫁できない,そんな厳しいところに置かれます。私たちを人として扱ってくださるからこそ,このような厳しさが伴います。
そのように厳しいことがあったとしても,災いや苦しみは自分の責任とは限りません。自分の責任ではあっても,苦しみからの救済は求めます。だからこそ,神はあくまでも救う神です。詩篇著者のように,敵対し苦しめる者や事柄が除かれることが救いとして起きるかもしれません。あるいは,問題そのものは残ったとしても,神や他者との繋がり,あるいは自分の中の問題の捉え方の変化によって,神の救済を経験できるかもしれません。ただ救いを考える時に,私たちは救うのは神であることを忘れてはならないでしょう。それは,私たちが希望し期待した形や時期に救いがやってこないかもしれないことを意味しています。同時に,神は私たちが期待し計画した以上にすばらしいことをすることでもあります。人との仲違い自体は解決に至らなくとも,人を思う気持ちや生き方を会得できるかもしれません。時にはそこに痛みがありますが,神の意思に適うところに神からの救いを認めて,感謝できます。感謝は恵みを与えた者との関係作りであり,神と人との感謝は,人が神の意思を聞き行うということです。感謝は日々の生活であり,私たちの持つべき価値観そのものに顕れてきます。
苦しみや負うべき責任に関する神への怒りや恐れ,苦しみから解放されたいという正直な思いと祈り,私が考える以上に私たちに必要な言葉や人や事柄を実現してくださる神への期待,生き方としての感謝,その一つ一つを大切にして生きていきたいものです。