「愛の懇願」

ピレモンへの手紙 8ー16

礼拝メッセージ 2019.6.23 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,キリストにあって新しく生まれたオネシモ

 8〜16節はいよいよ本題に入ります。それはオネシモのための執り成しのことばとなっています。したがって、内容の焦点はオネシモという人物に自然と向けられています。9〜10節を見ると、「このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです」と書いています。オネシモは、コロサイの町に住む主人ピレモンの家の奴隷でした。詳しい事情はわかりませんが、家の金品を盗んだのか、あるいは主人に対して何か損害を与えたからか、とにかく主人のもとを逃げ出してしまったのです。帝国の中心で、多くの人々で賑わう大都市ローマに、オネシモは逃げたのでしょう。しかし、どういうプロセスを通ったのかはまったく不明ですが、皇帝に上訴して裁判待ちの監禁状態にあったパウロのもとへ行くことになったのです。オネシモがその時、何歳であり、それまでの人生でどんな経験や出会いがあったのかはわかりませんが、間違いなく彼の人生を大きく変えることになった出来事が、ローマにいる囚われの身であったパウロとの出会いでした。オネシモは、パウロが囚人でありながら、平安と喜びにいつも満ち溢れ、海のように広く深い愛と寛容の心を持った人物であることを感じ取り、その不思議なキリストによる磁力によって自然と引き寄せられたのでしょう。オネシモは、パウロからキリストについて聞き、罪の赦しを与える十字架のみわざと新しいいのちをもたらす復活の恵みを聞いて、心から悔い改めて、主を信じました。彼は主にあって、新しく生まれたのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)。


2,役に立つ者に変えられたオネシモ

 11節に「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています」と、オネシモが別人のように変えられたことが記されています。オネシモという名前は、当時の文献資料によると奴隷にはよくある名前だったそうです。しかし、この名前の意味はギリシア語で「役に立つ者」あるいは「有益な者」という意味です。オネシモは主人のピレモンにとってみれば、役に立つ者どころか、損害を与えて、逃亡してしまった訳で、無益な役立たずという思いだったでしょう。しかし、パウロによって信仰を持った今のオネシモは違います。彼は名前通りの人、「役に立つ者」と変えられ、成長していました。11節の「役に立つ者」は、良く使うことができるという原意があり、有用な、有益なということです。フランシスコ会訳では「かけがえのない者」と訳しています。そのことば通り、単に、役に立って、便利な人ということではなく、むしろ無くてはならない、重要で大切な人とされているということです。この世がたとえ、あなたの代わりはいくらでもいると言って、切り捨てるようなメッセージを発していても、神の恵みによって、福音は、それはまったく間違っていることを教えます。キリストにある新しい人は、神の御前にかけがえのない存在であり、誰も代わりが利かない人とされていることを明らかにしてくれるのです。


3,福音のため仕える者オネシモ

 13節でパウロは自分の願いをまっすぐに述べています。「私は、彼を私のもとにとどめておき、獄中にいる間、福音のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました」。パウロに出会うまでのオネシモは、自分のためにどう生き延びようかと必死に逃げていました。けれども、これからはもう何からも逃げなくても良いのです。パウロと同じように、キリストに捕らえられたのですから。不思議なことですが、キリストにつかまったら、もうキリストのものとされているので安全なのです。他のどんな被造物が追いかけて来ようと何も心配する必要はないのです。そして明確な生きる目的が与えられます。キリストにある者は、神と神が自分の前に置かれた人々に仕えるのです。
 1節と9節でパウロは自分を「キリストの囚人」と呼びましたが、13節も直訳すると「あなたに代わって、福音の獄中にいる私に仕える」となっています。直訳の「福音の獄中」というのは奇妙な表現ですが、それは福音のために獄中にいるということですが、それだけでなく「キリストの囚人」と同じように、この表現も福音に捕らえられていることを示唆しています。福音のことばに捕らえられ、福音に仕える者となったパウロを通して、オネシモも福音に捕らえられ、その生き方がまったく変わったものとなったのでした。


4,ピレモンの愛する兄弟オネシモ

 14節でパウロはピレモンに、強制ではなく、自発的な愛で、この願いを聞き入れて欲しいと迫ります。その上で15〜16節の感動的なことばを述べます。「オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです」。「オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは」と、この「離された」という受け身の過去形は神的受動態と呼ばれるものです。この背後に神の導きがあったとパウロは語ります。ピレモンにとって、オネシモの逃亡は腹立たしい出来事だったでしょう。しかしオネシモの過ちであったと思われるこの不幸な事件さえも、神の偉大なご計画と恵み深い導きの中において、善なることと変えられたのでした。
 オネシモは、ピレモンにとって、これまで家の奴隷のひとり、仕え人でした。当時の感覚で言えば、奴隷身分の者は、その家の単なる労働力であり、道具でしかなかったでしょう。つまり、ひとりの人間として、人格として見られてはいなかったのです。しかし、この出来事を通してピレモンは、新たな主にある兄弟を得ることになりました。神の恵みの働き、主の福音は、ときに私たちを激しく揺さぶり、動かして、私たちが想像もしなかったあり方へと造り変えて、キリストにあって神の国の働きに導いて行かれます。奴隷制度が当たり前の社会の中で、福音は暴力的な革命によってではなく、人間ひとりひとりの心をその内側から変えて行くことを通して働きかけ、その後の社会のあり方そのものを覆して、その制度を駆逐していったのです。