「愛するように召された共同体」

コリント人への手紙 第一 16:1ー24

礼拝メッセージ 2017.2.5 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,主の教会は、神と人、人と人とを愛で結ぶ共同体です

献金を通して結ばれる関係

 非常に具体的な指示や内容が書いてあります。当時、やりとりをした発信人と宛先の人たちの間には、言葉を多く使わなくても、互いによくわかった内容だったのでしょう。ところが、現代の私たちにはそれが具体的にどういうことであったのかハッキリしないところもあります。しかし、具体的な事柄が書いてあるところから、当時の人たちの生活や信仰のリアルな部分がよく見えて、興味深く、そしてそれゆえにこそ教えられることも多くあります。
 これまでこの書で語られてきた多くのことも踏まえて16章読むと、この部分においても、教会というものがどういうものであるのかが、やはり明らかにされていると思います。分裂問題、不品行や結婚のこと、争い事、偶像に捧げた肉の取り扱いなど、いろいろな課題を抱えていたコリント教会でしたが、それでも教会は教会であり、聖徒は聖徒であるとパウロはこの手紙でその真理を明確に示してきました。その上で、彼らのいくつかの課題や質問に答えるようにして、主の教会はこういうものであると語って来ました。
 そして今日のタイトルにしましたように、教会は「愛するように召された共同体」なのです。愛とは、人と人とをつなぐ絆です。あるいはここでは、教会と教会、コリント教会とエルサレム教会とをつなぐ絆として、献金の勧めを語るのです。エルサレムの教会の人たちはおそらく飢饉に見舞われていました。献金を集めるので、各自が準備をしておくように、とパウロは指示を与えています。実に、献金を通して、地理的にも人種的にも異なり、互いに顔さえ知らない存在であるにもかかわらず、捧げる物を通して、教会がこの主にある愛の絆で結ばれていることを覚えることが必要でした。

働き人への対応を通して結ばれる関係

 パウロは次に、自分の計画を語ります。彼はマケドニヤを通ってから、コリントに寄り、そこに滞在する思いがあることを伝えました。多くの諸教会を巡回していたパウロを泊めることは、献金と同じように、教会が教会として、愛の絆を持つ群れとしてのあり方を自覚させる意味も、そこにあったことでしょう。
 そして微妙なニュアンスを含む、テモテとアポロとに関する言葉(10〜12節)も、彼らが教会としてどのように、主の働き人たちに対応することが必要なのかを学習する機会であったことと思います。コリント教会には分裂分派がありました。「私はパウロにつく」「私はアポロに」(1:12)、そういう状態の中に、パウロの直弟子のテモテを送ることは、「パウロにつく」と言っている人たちには嬉しいことであったでしょうが、その他の人たちにとっては逆の思いであったようです。ですから、「彼を軽んじてはいけません」(11節)と予め警告しています。この「軽んじる」は「無視する」という意味です。また「心配なく過ごせるように心を配ってください」(10節)とまで言っています。「アポロにつく」と言っていた人たちは、なぜ雄弁なアポロ先生ではなく、年の若いテモテが来たのか、と言って冷遇する可能性があることをパウロは心配していました。でも、それは人事の調整役としての意味で言っているのではなく、主の教会のあり方から、主の働きを担っている人たちに対して、正しく振る舞うように彼らに求めているのです。なぜなら、主の教会とは、神と人、そして人と人とを結び合わせる、愛の共同体だからです。


2,主の教会は、みことばで人を造り、建て上げる共同体です

人を造ることばを持つ共同体

 13〜14節は、短い言葉で、〜せよ、という命令形が繰り返されます。どの言葉も、人生や信仰生活を送る上で大切なものです。「目を覚ましていなさい」は、主イエスが再臨されるときの警告として、語られ(マルコ13:35)、ゲッセマネの祈りのときにも語られました(マルコ14:38)。イエスがそこにいないかのように思えても、必ず戻って来られることを覚えておくようにとの命令内容でした。
 「堅く信仰に立ちなさい」は、「立つ」は「滅びる」の反対語であり、「生きる」ことを意味しています。神を信じる信仰に基いて、私たちは生きて行くように導かれています。「男らしく、強くありなさい」は、旧約聖書の「強くあれ、雄々しくあれ」(ヨシュア1:9)を思い起こさせる言葉です。「男らしく」というと女性の方には関係のない言葉に見えますが、決してそうではありません。聖書がしばしば命じているように、私たちは誰であれ強くあらねばならないのです。それは強い体力を持っているとか、根性があるとか、そうしたことを超えたものです。エペソ6:10「主にあって、その大能の力によって、強められなさい」と語られているように、それは人間の側の頑張りではなく、主にあって、強められなさい、というものです。それは受け身ではなく、自分から進んで求め、主によって鍛えられていくべきものです。
 そしてこれら13節の生き方を追求していくとき、忘れてはならないことは、「愛」です。「いっさいのことを愛をもって行いなさい。」(14節)です。最も強い力が実に「愛」にあるのです。13〜14節にある言葉は、神に導かれた人たちが心に置くべき教えですが、そういう教えの言葉によって、一人一人が形造られ、キリストのからだである教会が建て上げられていくことを示しているのです。

人から互いに学び合う共同体

 この聖書箇所は具体的なことが語られているため、たくさんの地名や人名が出て来ました。15節以降に「ステパナ」という人物のことが記されています。この人については、聖書の証言はごくわずかでほとんど何もわかりません。彼がアカヤ地方で最初にキリスト者となった人であり、パウロから直接、洗礼を受けた数少ない人であったこと(1:16)、そして彼と彼の家族が熱心に奉仕した人たちであったことです。たぶん、このステパナたちがコリント教会からの質問状を使者としてパウロに届け、その返書であるこのコリントの手紙第一をコリント教会に持ち帰ったのではないかと言われています。いずれにしても、ここでパウロが勧めていることは、このような人から学び、従い、その労をねぎらうようにということでした。主の教会は、このように神によって立てられた人から学ぶことのできる共同体です。