「愛されている人よ、恐れるな」

ダニエル書 10:1ー21

礼拝メッセージ 2025.1.5 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,幻を見て気力を失うダニエル

現況と未来の不安

 1節「ペルシアの王キュロスの第三年に」とある通り、ダニエルがこの預言を受け取ったのは紀元前536年のことです。ダニエルは八十五歳を超えていたでしょう。その二年前「キュロス王の第一年」に、バビロンにいた捕囚の民が大挙して祖国帰還を果たします。指導者ゼルバベルや祭司ヨシュア等によって、彼らの悲願だった神殿再建が開始します。しかし基礎が築かれ、これからという時に、反対や妨害に遭遇し、工事は中断状態となります(エズラ4:23〜24)。10章以後の幻を見せられた「キュロス王の第三年」とはそういう時期です。エルサレムから遠く離れた場所にいたダニエルの耳にもその情報は届いていたことでしょう。彼もそれをたいへん憂い、祈っていたと思います。
 またダニエルはこれまで幾度となく幻を見せられました。彼は、純金−銀−青銅−鉄・粘土の巨大な像、四つの獣などの幻により、支配権を握る諸国家が栄枯盛衰を繰り返すさまを示されてきました。天の神が永遠の主権を持った御国を打ち立てられるその日まで、彼の同胞ユダヤ民族もそれらの国々に翻弄され、苦難に見舞われることを教えられていました。

苦しみの向こうに救いがある

 これに対して、「主よ、いつまでですか」と彼は心に思っていたことでしょう。ダニエルは幻を取り次ぐ御使いたちの会話で、神の民の苦難の日々はいつ終わるのかを聞いています。「常供のささげ物や、あの荒らす者の背き、そして聖所と軍勢が踏みにじられるという幻は、いつまでのことか」の問いかけに、答えは「二千三百の夕と朝が過ぎるまで」(8:13〜14)、あるいは、「それは一時と二時と半時である」(12:6〜7)と答えられています。苦しみの渦中にあり、忍耐の日々を重ねている人たちにとって、それは決して短いものには感じられない長さでしょう。しかし、永遠という絶対的尺度からすれば、それはごく僅かな限られた期間に過ぎないのです。幾多の困難を経ても、その先に救いがある、神の国がある、それが嘘偽りのないみことばの約束です。
 ダニエルが受け取った幻による神の啓示は、まさにそうでした。その苦難の出来事を思い、ダニエルは気が滅入りました。内から力が抜け、力を保てず、地に倒れ、深い眠りに陥ったのです(10:8〜9)。その通っていかねばならない苦難の道のりを考えると、ダニエルの思いもわかります。私たちも共感できるところでしょう。パウロたちが伝道旅行でキリスト者たちを訪ね、語ったことは、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)ということでした。こう言って彼らは「弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように」勧めたのです。聖書は一時的な気休めを語りません。いかなる苦難に遭っても、終局には必ず希望があるという真理をはっきりと覚える必要があります。ダニエル書の終わりにはこう告げられています。「常供のささげ物が取り払われ、荒らす忌まわしいものが据えられる時から、千二百九十日がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。」(12:11〜12)。真に幸いな者とは、「忍んで待ち、…達する者は」ということです。


2,力づけられ奮い立つダニエル

恐れるな、安心せよ、強くあれ

 御使い、あるいは神的存在者である「人のような姿をした方」が、ダニエルの側近くで激励し、力づけます。10節「一つの手が私に触れて、膝と手のひらをついていた私を揺さぶった。…彼は私に言った。『特別に愛されている人ダニエルよ…』、12節「彼は私に言った。『恐れるな、ダニエル…』、16節「人のような姿をした方が私の唇に触れた」、18〜19節「人のように見える方が、再び私に触れて力づけてくれた。その方は言った。『特別に愛されている人よ、恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ」。この方は、ダニエルに触れ、「特別に愛されている人」と呼び、「恐れるな。安心せよ。強くあれ」と彼の心に語りかけています。聖書には多くの「恐れるな」という神のメッセージが記されています。また、この「安心せよ」はヘブライ語で「シャローム」です。復活の主イエスが「平安があるように」と、怯える弟子たちを前に語ったことを思い起こします(ヨハネ20:19〜23)。ダニエル書の神的存在者については、5節と6節の描写がヨハネの黙示録1章13節から15節のイエスの御姿に似ているところから、受肉前のキリストを想定する人もあります。しかし、天使ミカエルの助けが必要であった(13節)とのことばから、そうではないとも言われています。御使いを通してか、主から直接であるかはさして重要なことではなく、このダニエルへの激励のことばがすべての信仰者たちに語られているという点が大切です。不安を覚え、苦しみを通る信仰者たちすべてに向かって、今も神は語りかけています。「恐れるな!安心せよ!」と。

私たちのために天で戦いが行われている

 それから、もう一つこの10章の記事から読み取れる大切なことは、霊的世界において、神の使いや悪霊たちの間で戦争が行われているということです。ダニエルに対して、「人のように見える方」がこう語っています。「今、私はペルシアの君と戦うために帰って行く。私が去ると、見よ、ギリシアの君がやって来る。しかし、真理の書に記されていることを、あなたに知らせよう。私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者は、あなたがたの君ミカエルのほかにはいない。」(20〜21節)。ちなみに「ペルシアの君」、「ギリシアの君」を、新共同訳聖書では「ペルシアの天使長」、「ギリシアの天使長」と訳しています。
 地上と並行して、天でそういう死闘が繰り広げられていることは、現代人にとっては想像が難しいことですが、新約聖書でパウロが「神の武具を着けなさい」という命令は、こうした霊的真理内容を前提としています。「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいる諸々の悪霊に対するものです。」(エペソ6:11〜12)。
 私たち人間には知覚し得ない霊的世界があり、そこで神の御使いたちが格闘をしているというこの啓示事実は、私たちを力づけるものであると思います。私たちが知らぬところで、神はこれまでも、そして今も、これからも働かれ、戦ってくださっているという大きな恵みを示しています。実際の戦いの様子は、ヨハネの黙示録12章7節から12節に記されています。私たちは、主の戦いによる勝利によって「圧倒的な勝利」(ローマ8:37)を得るのです。文語訳と口語訳では「勝ち得て余りあり」となっています。