「愚かな者の心」

詩篇 14:1-7

礼拝メッセージ 2023.2.19 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.神を求めず、善を行おうとしない愚かな者たち(1-3節)

 14篇は、実際にお読みいただくと分かるとおりですが、53篇の内容と非常に似ています。詩篇はもともといくつかの歌集に分かれており、何度か編集されて現在の形に至ったので、このようなことが起こったのではないかと言われています。
愚か者は、「神はいない」と言います(1節)。ここで言われている「愚か者」とは、知能的な無知を意味してはいません。また、神の存在を哲学的に否定する、無神論の立場の者を指しているのでもありません。自己中心的な生き方によって、悪事を働くために神を否定するような者のことです。
 当時の考え方としては、神の存在や概念そのものを否定する「無神論」という立場は基本的に見られないようです。民族や地域によって異なる神々が礼拝されていました。ですから、「神はいない」という言葉は、神という概念そのものを哲学的に否定しているのではなく、神はいても、いないことにしておきたいということです。新約聖書で、神を知っていながらも否定する者について、パウロは次のように表現しています。「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです(ローマ1:21)」。私たちの信仰は、神を「知っているだけ」になってはいないでしょうか。
 詩篇において、「神を求めない者」は、行いにおいても悪事を働く存在として登場します。それは、神の存在を認める者には、神の価値観や道徳観に沿った歩みが伴うものだという前提があるからでしょう。神を信じるということは、単に神という概念を肯定するということではなく、その神の価値観に生きるということです。ですから、「神を求めること」と「善を行うこと」は決して無関係ではありません。

 愚か者たちのことを、「主は天から人の子らを見下ろされ(2節)」ました。神の支配が人間的に表現されています。主がご覧になっておられる点は、「悟る者」「神を求める者」がいるかどうかということです。「悟り」とは、神を求める心から出るものなので、両者とも神に心が向いている者のことです。
 ところが、残念なことに、そのような者はいなかったとあります(3節)。「いない」という言葉の繰り返しによって、神を求めようとしない罪がすべての人に及んでいることが示されていると言えるかもしれません。「無用の者となった」は、「腐り果てている」とも訳されます。神を求めず、善を行わない愚か者は無用な者とされています。悲惨ですが、本来はこれが私たち人間のリアルな姿なのではないでしょうか。神を求めることこそが、自分にとって最も必要なことだと分かっていてもなお、神を求められない時もあるかもしれません。


2.主は正しい者たちの避け所(4-7節)

 詩人の目には、不法を行う者たちであふれていたようです(4節)。おそらく「愚か者」と見られた人たちのことであり、彼らは善を積極定に行わないばかりか、不法まで行っていました。貧しい者や弱い立場の者たちを圧迫するような存在だったことでしょう。「わたしの民(4節)」とは、主の民イスラエルのことです。これは、神がこれまでイスラエルの歴史において、救いのわざをなしてくださったことを思い起こさせる表現でもあります。「彼らは(4節)」とあるので、詩人は主なる神の側の視点に立って、当時の信仰的・道徳的腐敗を嘆いていることも伝わってきます。
 
 ところが、5節では、不法を行う者たちが、「大いに恐れた」とあります。「神はいない」と言って侮っていても、神のご臨在を感じると、恐怖を覚えずにはいられません。それは、神を求める以外に解決しようのない恐怖です。一方で、不法を行う者たちによって苦しめられていた神を求める者たちには、神という避け所があります。そこで与えられる安心は、何にも代えることのできないものです。どのような苦しみや虐げを経験したとしても、神という揺るぎないお方がともにいてくださいます。

 そして、最後に、いずれ神がイスラエルの民を回復される日が来ることについて、宣言されています(7節)。「イスラエルの救いがシオンから来るように」とは、神以外のものからではなく、神の都であるシオンから、つまり、「神から来るように」ということです。
 この詩篇に登場する「愚かな者」「不法を行う者」とは、私たち人間の本来の姿でもありますが、詩人は、そのような者たちの暴虐によって、苦しめられている側のひとりであったことが考えられます。現状の苦しさを越えて、この世界の痛みや苦しみに回復をもたらしてくださる神様に信頼を置いています。そして、そのことが、詩人の救いとなっています。
 イエス様は、群衆に「御国が来ますように(マタイ6:10)」と祈るよう教えられました。また、「すでに神の国は近づいている」とおっしゃっています。そして、神の国は必ず「来る」と約束しておられます。神の支配・価値観が、完全に実現する日が来るということです。
 私たちの本来の姿は「愚か者」であるので、神様は「悔い改めなさい」というメッセージとともに、イエス様を地上に遣わしてくださいました。第一に、その恵みをしっかりと受け止めたいと思います。そして、数えきれない痛みや苦しみ、虐げがあるこの世界に、いずれ必ず御国が来ることを信じて、祈っていきたいと思います。主こそ神であるこの世界で、今日も主に生かされ、御国の民として、主のみこころに歩んでまいりましょう。