「悪霊につかれたゲラサの人を癒やす」

マルコの福音書 5:1ー20

礼拝メッセージ 2021.1.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,悪霊につかれた人のほんとうの話

 この話を遠い過去の奇妙な話と見たり、現実離れしたホラーやオカルトのように見るなら、ほとんど何も益するところがないと思います。むしろ、ここに記されている出来事は、現代の私たちの中にも確かに存在する厳しい現実の状況を映し出していると私は思います。これまでこの福音書は、イエスの癒やしの奇跡の記事で、悪霊や汚れた霊にとりつかれた人々のことを書いてきていますが、この5章に至って、実際に悪霊につかれた人たちが抱えていた苦悩の現実や周りの人々の無慈悲な扱い、そして主によって解放されるという恵みがどんなに大きなことであるのかを明らかにしています。悪霊というものの存在は私たちの目でその姿かたちを見たり、その存在を証明することはできません。しかし、悪霊が実際にいることは、とりつかれた人間のことばや行動でその存在が認められると言います。この聖書箇所が明らかにしているのは、汚れた霊につかれている人がどのような状態にあったのかということです。
 この極めて危険な状態にあった人のことを思うと、現代人の誰もがその罪によって、また悪霊によってその心とからだが占有されてしまっているのではないかと感じてしまいます。原因はともかくとしても、何かのことで自己を喪失してしまい、孤独感を味わい、絶望して自己を追い詰めてしまう。そうしてどんどんと破滅の方向へと突き進んでしまうことになる。こうした恐ろしい危機状況に置かれることは、決して珍しいことではなく、自らを含めて経験させられることです。


2,悪霊につかれた人の自己喪失と孤独

自己喪失

 この箇所を見ると、汚れた霊によってこの人は、自分というものを全く見失った状態に陥っていたことがわかります。本来持つべきアイデンティティーを喪失していました。彼の語ることばはこの男自身の声なのか、それとも彼の中に住みついている別の声、すなわち悪霊どもの声なのか、区別がつきません。「私」と単数の人格で言ったり、時々「私たち」と複数になっていたりします。もはや自分が何であるのかを見失っているのです。3〜4節によると、彼は鎖や足かせで縛りつけられていたことが記されています。ところが、彼は鎖や足かせを引きちぎるほどの力を持ち、凶暴な野獣のように暴れ、叫び声を上げて、人々から恐れられていたようです。15節以降で解放されたあとの様子と比べてみると、この人は本来そのような人間ではなかったし、そのようにも見えなかったことがわかります。つまり、この人はあるときから、自分が何者であるのかということを完全に喪失し、その人自身でなくなってしまったのです。

孤独と絶望

 結果として、彼は自分の家族からも、周りにいる人々からも恐れられ、邪魔な存在、厄介者と見なされ、見捨てられ、家などの居場所を失い、誰も寄りつかない寂しい場所、墓場に追いやられてしまったのです。汚れた霊につかれていた人の厳しい現実がここに表されています。彼は人々から打ち捨てられた存在として、恐ろしいほどの孤独と絶望感を味わっていました。そのような心が向かう先は、自らを傷つけ、自己を破壊することでした。5節によると、彼は石で自らのからだを傷つけていました。イエスに救われてこの人自身は助かりますが、彼の中に巣食っていた悪霊どもは、最終的に豚の大群とともに崖から落ちて行きました。これは悪霊どもの運命づけられた本能であると思います。

敏感さと信仰の忌避

 人々から恐れられ、忌み嫌われ、共同体の視界から消し去られたこの人が持っていたものは、ある種の敏感さではないかと思います。それは追い出す側の人々が持っていなかった鋭敏な感覚です。それは一種の霊的アンテナでした。対岸から渡って来た、彼らから見れば異邦の者であったイエス一行に対して、村のだれも気に留める者はいなかったのですが、悪霊につかれていたこの男は違っていました。「彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した」(6節)のです。しかも、「いと高き神の子イエスよ」(7節)と呼びかけました。しかし、この霊的な敏感さは、悪霊から来ているものなので、主と向き合うことを恐れて、それを拒みました。彼の中にある声の主は言います。「私とあなたに何の関係があるのですか」と。この敏感さは、主と関わることをかえって避け、真の神への信仰や服従といったことを嫌がるのです。このように見ていくと、この人がいかに救われ難い状況にあったのかを感じます。しかし、イエスと出会うことによって、彼は癒やされ、救われることができました。


3, イエスは悪霊につかれた人に向かい合われた

 人々はこの悪霊につかれた人を墓場や山に追いやり、自分たちに危害が及ばないようにすることだけを考えましたが、イエスはそうではなく、真正面からこの人に向かい合っていかれました。8節でこう言われています。「汚れた霊よ、この人から出て行け」。「この人」とイエスは呼び、どんな状態にある人でも、人間は人間であるとして、向かい合われました。彼のうちに住む悪霊と真正面から対峙しつつも、人間としてこの一人の魂に触れられたのです。21節を見ると、この出来事の後、イエスとその一行は舟に乗り、また向こう岸へ渡られたと記されています。つまり、危険な目に遭遇してまで湖を渡って訪れたゲラサ人の地域でしたが、そこでの収穫は悪霊につかれたひとりの人の救いでした。それと真反対の考えを持つ人々の対応をこの箇所は描きます。「人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した」(17節)のでした。起こった出来事の恐ろしさもあったでしょうが、それ以上に彼らの家畜、豚の大量死という経済的損失によるところが大きかったのでしょう。ひとりの魂が救われることよりも、経済のことが優先されて考えられたのです。19〜20節を読むと、主の御あとに従っていくということは、弟子として同行することだけを意味しないことがわかります。この癒やされた人にとって、一番必要なことは、まず家族のところへ帰ることでした。断絶していたであろう家族との関係を立て直すこと、そして主の恵みの大きさを身を持って証しすること、それが彼に与えられたミッションでした。異邦人の地にあって、彼が果たすべきことはとても大きなものだったはずです(20節)。