「悪との戦い」

詩篇 35:1ー10

礼拝メッセージ 2023.10.1 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,呪いの詩篇?

 主を信じている人は皆「汝の敵を愛せよ」と教えられ、「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」というみことばの精神を心に留めています。だから、心の底ではいろいろ葛藤があっても、最終的には、どんなことでも、どんな人でも赦さなければならないと思っています。そういう私たちだからこそ、この詩篇35篇は、たいへん読みづらく感じる聖書箇所だと思います。詩篇作者(ダビデ)は、敵である人たちを赦すどころか、彼らが「卑しめられるように、…辱められるように」(4節)と求め、「滅びが彼を襲うように」、「滅びの中に彼が落ち込むように」(8節)と強烈なことばを発しています。これは祈りというよりも、むしろ呪いや呪詛のようにさえ見えます。確かに、英語では、こうした詩篇を「インプレカトリー・サーム」(呪いの詩篇)と呼んだりします。
 この詩篇から、私たちは何を知り、学べば良いでしょうか。全体を通して見ていくと、次の二つのことに目を留めることが大切であると思います。第一に、この世界の悪の現実を知り、その上で主イエスの御心を考えることです。第二に、私たち自身のために神に助けを求めて祈り、賛美することの必要です。


2,悪の現実を知り、主イエスの御苦しみを覚える

戦争、裁判のイメージが示すもの 

 第一のことを見ていきましょう。私たちが住むこの世界には、罪や悪の存在があり、誰もその現実から逃れられないということです。この詩篇を詳細に見ると、大きく三つの部分に分解できます。今日朗読した初めの部分ですが、それが1節から10節です。ここは、戦争のイメージです。1節に「主よ、私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください」と冒頭に記され、その後、「盾」と「大盾」(2節)、「槍」(3節)、「網を張った穴」(7節)と表現されています。勝つか負けるか、生きるか死ぬか、といういのちをかけたぎりぎりの戦いが、詩篇作者の状況でした。これらのことば通り、戦争のただ中にいたのかもしれませんが、たとえ現実に盾や槍で攻防する状態でなかったとしても、彼の心のうちは戦場にいるかの如くであったということです。
 第二の部分は、11節から18節です。ここは、裁判や訴訟のイメージです。「悪意のある証人どもが立ち、私が知らないことを私に問います」(11節)というように、法廷の場面になっています。詩篇作者は、「悪意のある証人ども」(11節)、「私の知らない攻撃者」(15節)、「嘲りののしる者たち」(16節)に取り囲まれて、しつこく尋問され、多くの中傷することばの砲火を浴びて、責め立てられています。今や敵となった彼らは詩篇作者がしてきた善良な施しも忘れたかのように、歯をむき出して襲いかかります。作者は力を振り絞って必死に抗弁し、自らの正しさを主張しています。この詩篇を読む限り、作者はひとりぼっちであり、孤軍奮闘のようです。第三の部分は19節から終わりの28節までです。ここには義を求める作者の嘆願と勝利を確信する祈りが記されています。
 このようにこの詩篇は、作者の追い詰められた状況、避けることのできない苦しい現実があったことを示しています。人間の恐ろしい悪意や嫉妬、欲望による暗闇の現実は、聖書の書かれた時代にも、現代にも存在しています。また、人間の集合体である国や社会、そして地域にも、さまざまな悪の力が働いています。

主イエスの苦しみと御心

 新約聖書を見ると、主イエスはその公生涯において、どれだけ多くの悪巧みや圧迫、迫害に直面したかを知ることができます。律法学者やパリサイ人たちなど当時の指導者たちは、神の御子であるお方に向かって、嫉妬や憎悪の感情に燃え、策略をめぐらし、罠に陥れようと執拗に攻撃を続けました。彼らは主が十字架にかかられたとき、25節にあるように、「あはは、われわれの望みどおりだ」と心の中で罵ったと思います。私たちは自らの苦闘の中で、主イエスがすでにそのような苦難と圧迫を通っていかれたことを思い起こします。それによって、勇気と力を受けることができます。
 この詩篇の新約聖書の明確な引用は、19節の「ゆえもなく私を憎む人々」です。ヨハネの福音書15章25節にそれはあり、「これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです」と主ご自身が語っています。それに先立つことばとして、主は「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。」(同15:18)とも言われました。
 旧約学者によれば、この詩篇はイスラエルの王家による諸外国との国際条約を背景としているそうです。イスラエルの王たちは周辺諸国から敵対的な行動を受けた時、条約に基づいた「神からの呪いとさばき」を発動して戦いました。しかし、イエスは人間の罪の結果によって生じた呪いを取り除くため、むしろ人間の憎しみを引き受け、ご自身は十字架にかかられました。人間の憎しみの結果としてのイエスの死は、神と人類との間に全く新しい条約、契約となりました。


3,私たち自身のために祈り、賛美する

 第二に、この詩篇から学びたいことは、私たち自身のために祈り、賛美することです。私たちも時に人々から不当に中傷されたり、危害を加えられることがあります。そんな中で、祈りのうちに心の真実をすべて主に告げ、助けを求め、懇願できることは、本当に大きな恵みです。苦難の中にあると、「神はどこにおられるのか」とかえって神との距離を置いてしまう危険があります。しかし、そうしないで、詩篇作者のように、神に大胆に近づき、祈りの中で思いのすべてを告げ、求め願うことが必要です。「主よ、…私を助けに来てください!」と。
 もちろん、その場合に気をつけなければならないことは、誹謗中傷を受ける時、私たち自身に全く非がない、罪がないということはあまり無いことを踏まえておくことです。一方的に自分が正しいと、正義の剣を振るうのではなく、常に謙りの心、悔い改めの思いを忘れず、主に対して自分を義の道に導いてくださるように、謙遜に願わなくてはなりません。
 当然のことですが、私たちは神に正義を求めて祈ることはできますが、自らの手で裁きや報いを相手に与えることはできません。神は言われます。「復讐と報復はわたしのもの」と(申命記32:35)。パウロもそのことばを引用して、こう言いました。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。」(ローマ12:19)。
 そしてこの詩篇が最後のところで示していることは、賛美することです。「私の舌は告げ知らせます。あなたの義を。日夜、あなたの誉れを」(28節)。賛美は祈りです。自分の口で、その舌をもって、神の義を、平和を、愛と恵みを宣言し、ほめたたえること、それが賛美です。