「恵みの選びによって残された者たち」

ローマ人への手紙 11:1ー10

礼拝メッセージ 2018.1.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神の真実さに対する疑いを持つ時、恵みによって生かされている自分を見てください(1節)

神の真実さに対する疑い

 新しい年がスタートしましたが、すべての人がこの一年を明るく希望に満ちたものとして期待しているかというと、そうではないでしょう。心配や不安、恐れを抱きつつ歩んでおられる人たちもおられると思います。そして悲観的で暗い気持ちになっているのは、神を知らない、この世の方々だけではありません。キリスト者であっても、恐れや失望感の中にいることもあります。このローマ書にあるように、神のみことばが無効になったのか、神は公正ではないのだろうか、私は神に見捨てられているのではないだろうか等、というような神に対する疑いの心が、信仰生活に宿る真のいのちをしぼませ、御心を実践する力と意欲を減退させ、聖霊による喜びと希望を見失わせているのかもしれません。この1〜10節で語られているのは、そんな疑問を抱いたり、心の葛藤を感じることのある私たちに向けられたメッセージです。

この私もイスラエル人です

 パウロは、この信仰の疑問に対しての全否定を前提に「この私もイスラエル人」であると明言します。イスラエルが救われないかのように言ったり、思ったりしている人たちがいるが、そんなことは絶対にない。私を見てご覧なさいとパウロは自分を指さします。私はれっきとしたイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族に属していますと、堂々とパウロは断言します。
 こういうパウロの言明について、どう考えたら良いでしょうか。例えば、日本人の救いについて考える時に、私が救われているのだ、だから日本人は絶対救われる、というふうに思えるでしょうか。パウロのように異邦人の使徒として召され、キリスト信仰に大きな影響を与えた立派な人物だから、そんなことが言えたのであって、私のようなちっぽけな、信仰の弱い者がそんなふうには考えられない、と思われるかもしれません。しかし、パウロは他の箇所でも語っているように、罪人のかしらのような私が救われたのは、ただ神の恵みゆえであって、私自身の中に、何か誇れることがあったり、認められるものがあるからでは決してない、と語りました。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」(Ⅰコリント15:9〜10)。

こんな私でさえも

 パウロの考えの流れに沿って言うならば、こんな私でさえも救われたのだから、神は、イスラエルを、日本を、世界を、お見捨てにはなっておられない、いつか救ってくださるはずである、と信じていけるのです。もちろん、イスラエルについては、特別な神のご計画と明確な啓示のことばがありました。しかし、このイスラエルに対する導きは、すべての信仰者にも関わりのあることです。なぜなら、神はご自分の選んだ者たちを決して退けず、見捨てることのないお方であることを明らかにしているからです。


2,神の真実さに対する疑いを持つ時、神が備えられた残りの者がいる事実を見てください(2〜4節)

預言者エリヤ

 第二に、パウロが示すことは、救いの歴史において、神が残りの者を備えていたという事実を見ることです。2〜4節で取り上げられているのは、預言者エリヤの話です。エリヤについての話は、列王記に記されています。バアルの偽預言者たちに対して大勝利を治めたエリヤでしたが、バアルを信奉していた王妃イゼベルらの権力者から命を狙われ、恐怖心と極度の疲労感や孤独から、「いのちを取ってください」と神に祈るほど精神的に追い詰められます。そこで彼が神からのお取り扱いと語りかけを受けていく、主との会話のやり取りが、3節と4節に引用された内容です。この3節のセリフは、エリヤの胸中にあった絶望感をよく表しています。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」(3節)。エリヤだけが、たった一人主の預言者として生き残ったのですが、そのエリヤ自身も、今や、いのちを狙われて、風前の灯火のような状態です。パウロは、Ⅰ節で、自分を見てください、この私がいるではないですか、と言いましたが、エリヤが言うのは、その自分さえも、もうすぐ殺されていなくなってしまうかもしれない、そうなれば、あなたの選びの民はいったいどうなるのか、全滅してゼロになってしまうのですか、という最悪の危機状況における叫びです。しかし、それに対して、主は素晴らしい保証のことばを告げてくださったのです。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある」というものです。ここで語られた明確な約束は、あなたはひとりではない、ということです。今まで孤軍奮闘して来たように見えるが、わたしが大勢の仲間をすでに備えていると明らかにされました。しかも「わたしのために」(主ご自身のため)と書いています。「あなたのため」(エリヤのため)ではないのです。これは幸いなことばです。なぜなら、神がご自分のために、みことばとご計画の成就のために働いてくださるとの、力強い神ご自身の意志や決断を示す宣言であるからです。

「残された者」(レムナント)の存在

 エリヤの時代にも、そしてこれが記されているパウロの時代にも、神の恵みの支配があったのです。どん底のように見える状況の只中であってさえも、わたしは七千人残していると、主は言われたのです。5節の「残された者」は、英訳聖書ではレムナント(remnant)と訳されます。英語の辞書によると、古いフランス語から来ており、「生き残り」「生き残った者」との説明がありました。目に見える状況は暗くても、神の恵みによる働きは、常に進行中であり、途中でやめたり、頓挫するようなことは決してないのです。パウロもこれとよく似た御声をコリントの町で聞きました。「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。』」(使徒18:9〜10)。私たちの信仰生活と伝道の働きにおいて、しっかりと心に留めておきましょう。