「恵みの良い管理者(2)」

ペテロの手紙 第一 4:7ー11

礼拝メッセージ 2020.5.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,恵みの良い管理者として、「時」を悟る(7節)

万物の終わりが近づきました

 「万物の終わりが近づきました」ということばを聞くと、この今の状況において、終末の兆しと受け取る人もあり、それを想像してさらに不安を増幅させてしまうことがあるかもしれません。しかし、私はペテロの手紙第一をここまで読んで来て、学び得たことの一つは、この書が語る終末はこの世界の滅亡を意味していないということです。ペテロが指し示す「万物の終わり」とは、すべてのことが消滅したり、滅んでしまうような恐怖の時代の到来を予言したり、意味するものではありません。「終わり」はギリシア語では「テロス」という語であり、これは「結末」、「成就」といった完成の時のことも表す表現です。ペテロの手紙が繰り返して語っているのは、その「終わり」が来ると、何が起こるのかと言うと、再びキリストが現れてくださるということです。それはキリスト者にとって、真の希望の日です。

祈りのために心を整え身を慎みなさい

 ペテロは、復活されたイエスが、オリーブ山から天に昇っていかれるさまをその目で見ていました。そして、白い衣を着たふたりの人が、それをじっと見つめていた使徒たちにこう言いました。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」(使徒1:11)。イエスのお帰りを待つ者として、ペテロは読者に勧めます。「ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」と。この「心を整え」という命令のことばは、多くの箇所で、「正気に返る」と訳されている単語です(参考;マルコ5:15)。冷静に物事を考えたり、行動が取れないような混乱状態にある人が、「しっかりしなさい」との声で元の状態に戻るようなことでしょう。当時の読者たちは「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならない」(1:6)ような状況下にありました。試練のゆえに、正気を失ってしまうようなこともあったでしょう。ですから、ペテロは呼びかけるのです。しっかりしてください、冷静になりなさい、落ち着いてくださいと、救援者のような声として語りかけるのです。次の「身を慎みなさい」の表現も、元々の意味は「しらふであれ」「酒に酔うな」という意味です。苦しみが長引くと、肉の欲や誘惑に負けてしまいやすくなり、無益なことに時間やエネルギーを取られてしまうことがあります。ペテロはそれを戒めます。今という「時」がどういうときであるのかをしっかりとわきまえて、何をするべきかをよく考えなさいと勧めています。ここでは、祈ることに力を尽くすように語られています。


2,恵みの良い管理者として、奉仕の意味を悟る(8〜10節)

それぞれが賜物を受けている

 8節以降を読むと、私たちが「神の様々な恵みの良い管理者」であることを自覚するように語られています。この「管理者」というのは、英訳聖書ではほとんどスチュワードと訳しています。スチュワードというのはあまり馴染みのないことばかもしれません。執事、家令、給仕長のような人を指しています。私と同世代かそれより上の方であれば、スチュワードとは、スチュワーデス(女性形)と同じですと言ったら良いでしょうか。旅客機の客室乗務員(キャビンアテンダント)の方を昔はそう呼んでいました。また、「管理者」というのは、ギリシア語辞書で見ると、アドミニストレーターと書いています。アドミニストレーターとは、英語で行政官や経営者などを指すことばです。つまり、この「管理者」というのは、職務遂行のために必要なものが与えられ、責任をもって成果を出すよう期待されている人のことです。神は、私たち人間にいろいろな個性や能力を与えてくださっています。キリストのからだと呼ばれる教会の中において、それは「賜物」(ギフト)と言っています。それは、私たちの努力の有無が関係している場合もありますが、生かされているという根本真理から考えると、すべては神が私たちに与えられた恵みによるものだと言って良いでしょう。

愛は多くの罪をおおう

 イエスがしばしばたとえ話で話されたように、神が雇い主、支配者として、様々な賜物を与えたしもべとしての私たちをこの世界に置いて、神はこの地を治めておられるのです。したがって、管理者としての私たちの仕事は、どんな種類の働きであっても神に向かって捧げられているのです。それゆえに、8節で命じられていますように、雇い主である神を一番喜ばせる奉仕のやり方は、愛をもってすべてのことを行うことです。苦しみや試練の中にあった読者たちも、毎日の生活が必死の状態で心の余裕はほとんど無かったでしょう。また、試練は人間の心の中を裸にして、その人のうちにある罪や肉の願望を露わにします。でも、だからこそ「何よりもまず」愛が必要なのであり、愛と優しさが求められるのです。8〜10節にそれを実践する促しのことばとして、ペテロは「互いに〜しなさい」という表現を繰り返しています。「愛は多くの罪をおおう」は、箴言にそれと近い表現があります。「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう」(箴言10:12)。パウロもコリント人への手紙第一で語っていますが、賜物を超える賜物、あるいは神が人間に与えられた最強の秘密兵器が「愛」なのです。愛は、悪魔の攻撃と人間のあらゆる罪を封じ込めて、完全に無力化することができるのです。


3, 恵みの良い管理者として、奉仕の力を得る(11節)

 世の試練の中で「恵みの良い管理者」として生きる私たちも疲れ、弱ることもあるでしょう。ペテロは、11節の「頌栄」の賛美に至ることばの中で、私たちの忍耐する力、奉仕するエネルギーの源は、神の中にあることを語っています。「神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい」と。この「備えてくださる」というのは、合唱のコーラスということばの語源「コレーゲオー」ということばが使われています。合唱団や舞踊団のスポンサー兼指導者が、舞台を良いものとするために、必要なお金を出したり、彼らを訓練したりするというかたちで十分なものを与えるという、特殊な意味のことばです。経済的必要であれ、訓練や教育であれ、神はこの世界という舞台に立たせる私たちに対して、必要と思われる一切のものと、それを遂行できるための強い力とを、十分且つ余りあるほどに供給してくださるということです。