「恵みの良い管理者(1)」

ペテロの手紙 第一 4:1ー6

礼拝メッセージ 2020.4.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,残された時間をどう生きるか考えよ(1〜3節)

地上での残された時

 ペテロは読者に対して、地上で残っている人生の時間を、「あなたはいったいどう生きますか」と問いかけています。手紙の宛先の人々には苦難があり、迫害がありました。それぞれ広大な地に散らばり、互いの地域に行き来ができない状況で、それぞれが信仰の道を歩んでいました。聖書は人間の苦難を楽天的に理解して、すべてが良いことのように語っているわけではありませんが、この書を見る限りにおいて、神の民である人々の苦難は、キリストの受難に目を向けさせて、人生というものについて再考させる機会になることを教えています。苦難に遭ったことが生き直すことのチャンスとさえなり得る場合があるのです。2節と3節に「時」ということばが出て来ますが、それぞれ違う単語が使われています。2節のギリシア語はクロノスで、計測できる時間のことです。3節はカイロスという語で、おもに機会やタイミングを意味します。2節と3節で語られている「時」は、刻々と過ぎて行く流れの中で、人がどういう時の使い方をして過ごし、歩んでいくのかということを考えさせてくれます。

過ぎ去った時に戻るな

 3節では、彼らの過去の生きて来たあり方が記されています。ここの「異邦人」という表現は、キリストにある「神の民」との対比で、信仰を持たない世の人々のことを指しています。「好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、…偶像礼拝など」となっています。挙げられている悪徳リストは、性的な事柄と、飲酒による乱行がおもなものです。このどちらもが、人間にとって強い誘惑になるものとして挙げられています。当時の状況はわかりませんが、4節に「度を越した…放蕩」と書いていますように、不道徳や不品行に結びつく行き過ぎたところがあったのでしょう。また、最後の「律法に反する偶像礼拝」のことばは、人間の自分勝手な願望だけを叶えるだけの存在、つまりは人間の欲望をかたちにしただけのものである偶像を拝むという、罪の本質をペテロは指摘したのだと思います。神の民とされている私たちには、もはやそのようなものに従って生きる必要はありません。過ぎ去った時に逆戻りするのではなく、キリストにあって、まったく新しくされた民として生活するのです。

キリストの受難を覚えて、苦難に立ち向かえ

 そういう誘惑と闘いの多い世にあって、キリスト者たちは「自分自身を武装」しなくてはならない」のです(1節)。武装する武具は、もちろん「神のすべての武具」です。エペソ人への手紙6章などに書いてありますように、腰に「真理の帯」、胸に「正義の胸当て」、足に「平和の福音の備え」、手には「信仰の盾」、頭に「救いのかぶと」、そして神のみことばである「御霊の剣」という装備をして戦うのです。ここでペテロが述べていることは、まさしく兵士が武装して、戦闘準備をするかのように、この苦難のときに、忍耐をもって、困難に立ち向かえ、ということです。「心構え」ということばにも示唆されているように、苦しみに打ち勝つように決意しなさい、と励ましています。その勧めの根底には、この書が繰り返し語っているように、キリストを見よ、ということがあります。キリストの受難、十字架と、自分が直面している苦難の現実とを重ね合わせて見ること、それがこの終わりの見えない暗いトンネルを抜けるために必要なことであり、闇の中での確かな灯明となることをペテロは言うのです。キリストの受難を思い、世にある艱難に勝利するのです。主は言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)。


2,死がすべての終わりではないことを確信せよ(4〜6節)

生きている者も死んだ者もさばかれる

 私たちの残された地上生涯の歩み方について勧めのことばを語ったペテロは、地上での肉体をもった時間だけで、すべてが終わってしまうのではないことを後半で明らかにします。1〜3節では、「地上での残された時」には限りがあることを示した点においては、「メメント・モリ」(死を忘れるな!)という忠告に通じます。続く4〜6節は、死んで終わりではない、神が私たちをさばかれる時が来るという点では、神学者バルトが言ったように、「メメント・ドミニ」(主を忘れるな!)と、また言い表すことができます。一度きりの限りある人生だからこそ、どう生きるのかは重要なのですが、それとともに、地上での生涯だけですべてが終わってしまうのではなく、必ず死後にさばきがあることを聖書は明らかにしています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)。すべての人が例外なく、さばきという「終わりの時」を迎えることになります(1:5,4:7など)。5節の「申し開きをすることになる」と訳されたことばは、「勘定を支払うことになる」というのが直訳です。神は正義で、公平なお方です。地上のすべての人たちの行いの一切をご存知です。計算間違いも、回収漏れもなさいません。未払い勘定は必ず支払わなくてはなりません。それがさばきという総決算の日です。

霊においては神によって生きる

 続く6節で、すでに信仰をもって主に従い、死んでいった人たちに対する真理が表されています。「このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした」。3章の終わりと同様、死後にも救いのチャンスがあるかのように考える人たちもいますが、『新改訳2017』の訳している理解がおそらく正しいでしょう。この書は繰り返し、「そのとき」について語っています。「イエス・キリストが現れるとき」(1:7、13)、「大牧者が現れるとき」(5:4)と記し、4章5節では、「生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方」と書いています。「さばこうとしている方」とは、「さばくことを準備している方」の意味です。かつて不当な裁判でさばかれて、十字架にかけられたお方が、実は生者も死者もすべてさばきをなさるお方であったのです(Ⅱテモテ4:1)。キリストは「肉においては死に渡され、霊においては生かされ」たお方でした(3:18)。私たちもこの方により、「人間としてはさばきを受けても、霊においては神によって生きる」者とされているのです。