「心の中の真実を語る人」

詩篇 15:1ー5

礼拝メッセージ 2023.2.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,主を恐れる礼拝者となる

 C.H.スポルジョンの詩篇解説書に、この詩篇は「ザ・クエスチョン・アンド・アンサー」(問いと答え)であると書いていました。というのも、1節が質問で、2節以降がその答えになっているからです。その質問とは、「だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。」です。ここでは「主を礼拝する人は、いかに生きるべきですか」という、どの時代であっても、すべての人が心して聞かなければならない、神の御心として大切な事柄が語られています。聖書の中には、同じような形式で、神を恐れ、信頼する者たちの生き方を示した文章がいくつもあります。同じ詩篇の中で、24篇にこうあります。「だれが、主の山に登り得るのか。だれが、聖なる御前に立てるのか。手がきよく、心の澄んだ人、そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人。…」(詩篇24:3〜6)。イザヤ書にもこうあります。「だれが、とこしえに燃える炉のに耐えられるか。義を行う者、公正を語る者、強奪による利得を退ける者、…」(イザヤ33:14〜16)。
 学術的注解書には、この詩篇が神殿に入場する際の典礼(儀式)のことばであると解説していました。礼拝のために神殿や幕屋に来る人々に対して、神殿の外庭で祭司が立っていて1節の問いを語り、会衆の代表が2節以降のことばを唱えたと想像されています。詩篇15篇の「幕屋に宿る」や「聖なる山に住む」というのは、神を礼拝し、神との交わりの中に置かれて生きる、ということです。つまり、主を礼拝する者は、こういう人でなければならないということです。礼拝者にふさわしい人は、2節以降にあるように、「全き者として歩み、義を行い、心の中の真実を語る人」であると書いています。ここに、この詩篇が語る一つ目のメッセージがあります。すなわち、礼拝者としての敬虔、恐れ、真剣さという意識を持つことです。
 預言者イザヤは、神殿での礼拝で、主のご臨在を目の当たりにしたとき、彼は「神様、感謝します。ハレルヤ」とは言わなかったのです。いや言えなかったのです。彼はこう言いました。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)と叫び、告白しました。この「ああ、私は滅んでしまう」は、以前の訳(第三版)では「ああ、私は、もうだめだ」と訳され、「わざわいなるかな」と訳されることのある表現です。イザヤは、主なる神の臨在に触れ、ひどく恐れを抱いたのです。
 礼拝というものは、一つの見方でいうと、不完全でも、弱く罪ある者であっても、すべての人が神の御前に招かれ、主の救いを喜び、感謝し、賛美を捧げることのできる祝宴です。だれもが皆温かく歓迎されるところです。しかし、他方で、人間の喜びや居心地の良さが強調されるあまり、人間中心の場となって、神への恐れもわきまえも失うなら、それは単なる「おつとめ」になってしまいます。礼拝が、講演会やショーのようなものになってしまうとき、礼拝の本質は失われ、神不在の場となってしまいます。
 そのことを踏まえて、詩篇15篇1節を読み返すと、「主よ、だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか」というのは、「一体だれが、あなたの幕屋に宿ることができるのでしょうか」、「そのような資格を持った人は一体どこにいるのでしょうか」という、聖なる神への正しい恐れを抱いた礼拝者の叫びとも取れます。そうであるなら、この詩篇の呼びかけは、たいへん厳しく、強烈な呼びかけであると思います。
 パウロの叫びを聞く思いがします。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)。だれがこのみじめな私を真の礼拝者としてくださるのでしょうか。パウロが言うように、それは「私たちの主イエス・キリストを通して」(同7:25)のみ可能なことです。ですから、旧約学者の関根正雄氏は、この詩篇の解説で、ここに描かれる「義人」(正しい人)は、「究極的にはただ一人の全き人を指し示している」と述べ、ここに「キリストがはるか遠くに示されている」と言っています。この主イエスに繋がることがなければ、私たちはだれも焼き尽くす炎のようなお方の御前に出ることは決してできないのです。


2,礼拝者として日常を生きる

 第二に、この詩篇が私たちに呼びかけるのは、「いかに生きるべきか」という教えです。1節の問いに続く2節で、詩篇作者は、「主の幕屋に宿る者」、「聖なる山に住む者」は、このような者であると定義します。それは、「全き者として歩み、義を行い、心の中の真実を語る人」です。旧約聖書で重要な三つの単語がここに出て来ます。「完全」(ヘブライ語:ターミーム)、「義」(ヘブライ語:ツェデク)、「真実」(ヘブライ語:エメト)です。この「完全」、「義」、「真実」を持って歩む人のことを、3節から5節にかけて具体的に説明しています。「全き者として歩み、義を行い、心の中の真実を語る人」は、次のような人であると。それは「舌をもって中傷せず、友人に悪を行わず、…」というように、専ら「〜しない人」という表現で、わかりやすく述べられています。
 第一に、3節でおもに「ことば」のことが問題にされています。聖書は、私たちが日常使う「ことば」というものを軽く見てはいないのです。「ことば」は日本語で「言の葉」と書きますが、ことばはひらひらと舞うような小さな存在ではありません。会話の「ことば」も、手紙、PCやスマートフォンで発信されるものも同様ですが、それらは軽く扱われるべきものではありません。ことばは、大きな森を燃やし、人生の車輪を焼いてしまう恐ろしい威力を持ち、その使い方に聖書は警告を発しています(ヤコブ3:5、6)。
 第二に、4節では、どういう優先順位を持って生きるか、ということです。何を蔑み、何を尊ぶか、それはその人の人生における優先順位、価値観を明らかにします。神様を第一にすると言っても、世のことをいい加減にせよ、ということではありません。「主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え」(詩篇37:3)とあるように、この地に住んで、義務を果たし、正しく歩むことは大切です。その人が持つ価値観というものは、表面的には見えにくく、自覚さえしていないかもしれませんが、何気ない日常の振る舞いや言動、そして問題への対処、決断の仕方で明らかにされ、見えてきます。自分の価値基準を見直しましょう。
 第三に、お金の使い方によって、その人の真価が試されます。「使い方」と言いましたが、受け取り方、稼ぎ方、貯蓄の仕方など、すべてのことです。5節では「利息をつけて金を貸すことをせず」とありますが、注解書には、古代社会では現代では考えられないほど高い利子率が設けられていたそうです。たとえばバビロンでは、利子は33%であったそうです。「完全・義・真実」に生きるとは、何か漠然とした理想ではなく、このようにどのようにお金を受け、どのように使うのか、というたいへん現実的なことです。パウロがローマ人への手紙で記す「霊的な」、「理にかなう礼拝」(ギリシア語:ロギケー・ラトレイア)とは、この詩篇が言う、こういう礼拝者としての生き方のことだったのです。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)。