「心の中の戦場②」

ローマ人への手紙 7:7ー13

礼拝メッセージ 2017.8.20 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,律法は、罪を明らかにします

 7節から、「私」という1人称で語る文章が続きます。この「私」とは誰を指しているのか、いろいろと考えられてきました。回心前の人を一般的な視点で示しているとか、これがパウロ自身ならば、それは回心前なのか、あるいは回心後も含むのか、などの複数の捉え方があります。しかし、一番自然な理解は、パウロ自身のことを指しているとするのが良いと思います。その場合、ローマ教会の信徒に宛てた手紙であることを前提にすると、回心前か、回心後であるか、などと分けて理解する必要もないと思います。
 そして、この「私」と語るパウロの経験は、単に彼の個人的なものにとどまるものではなく、万人に普遍的なものとして、示されている内容であると私は受け取っています。ですから、この心の中で起こっている戦争状態にある「私」経験は、時代を越えて、21世紀の私たちの中にも、認められる霊的葛藤のことだと理解できます。実にパウロの「私」経験は、今日の私たちの経験です。
 この聖書箇所を読んですぐに分かることは、律法と罪との問題を取り扱っていることです。では、なぜ律法や罪の問題を語るのでしょうか。それは、繰り返しになりますが、パウロは、ローマの教会の人たちに、福音を語ることを、また福音に生きることを示すことを目的に、この手紙が書かれたことを見てきました。
 それで、福音を語るには、まず人間の状況、罪の問題を語る必要がありました。そして罪を語るには、罪を罪として定める基準となる律法を語ることが必要でした。福音を語る際に、私も、多くの方々と学ぶ際に、罪の問題を語って来ました。罪を知ることで、神の救いの必要が明らかになるからです。


2,律法は、罪を刺激します

 7節で「律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」とありますが、これはどういうことでしょうか。ここで言われていることは、人間には欲望があるということを知っているということではなくて、それが罪であるということなのです。もとの十戒の箇所を見ておきましょう。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト20:17)。パウロが罪の問題を論じるにあたって、この十番目の戒め(第十戒)を取り上げたのには意味があります。モーセの十戒の言葉を見ると、最初の4つの戒めがおもに神に対する戒めで、後半6つが、対人間に関する戒めです。父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽りの証言をするな、そして、この第十戒が続くのです。この十番目の戒めが一番理解するのが難しいと思います。なぜ、欲しがること自体がいけないのか、立派な隣の家を見て、ああこんな家に住めたらいいなあ、と思うことがなぜ悪いこととされるのでしょうか。ここで、1章の内容を思い起こすことが必要です。「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」(1:21)と、神を神としていないことの中に、罪の根本をパウロは指摘しました。それは、最初の第一戒の内容に基づくものでした。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3)。神を神としないところから、御心から離れた生き方、罪の行為が現れるのです。しかし、この7章では、人間の心の中にある課題に焦点を当てている、一番最後の戒めをもって、罪の本質を明らかにしています。殺人、姦淫、盗み等のことの中にある根本動機は、第十戒の指摘する「むさぼり」「欲望」の思いから生まれるからです。他人のものを欲しがる心の中に、すでに罪の萌芽が見い出されます。山上の説教でイエスが指摘されたように、人が心の中で犯す罪、心の中で「ばか者」と罵ったり、情欲を抱いて女を見ることで、すでに罪を犯してしまっているということです。
 パウロ自身が、罪を犯す者のようには見えなかったでしょうし、彼の罪を指摘できる人もいなかったかもしれません。けれども、第十戒に照らして自分の心の中を見る時、罪の誘いに対して激しく抵抗を試みていたとしても、「かえって、したくない悪を行っています」(ローマ7:19)という情けない自分を見ていたのではないでしょうか。それゆえ、「私は罪ある人間」(14節)と書いたのです。さらに、パウロは、律法そのものは聖なるもので、何も悪くはないが、人間の罪深さのゆえに、律法の命じる言葉を聞くことが、かえって、罪の心、神への反抗心を引き起こすことがあることを明らかにしています。皆さんも経験がないでしょうか。他人から「〜しなさい」と言われると、かえってやりたくなくなり、それと全く反対のことをやりたくなるものです。
 アウグスティヌスが『告白』の中で、梨の木の実を盗んだ話を記しています。青年だった彼は、友だちと一緒に深夜に出かけて行き、梨の木を揺さぶって実を落とし、盗みました。それは、梨の実を食べたかったからではなく、禁じられている行為をあえて犯すことを楽しむためでした。「わたしの悪意は悪意のための悪意にほかなりませんでした。それは醜悪でした。わたしはこの醜悪さを愛しました。わたしは滅亡を愛し、自分の罪を愛しました。しかも罪の結果ではなく、自分の罪そのものを愛しました。」(宮谷宣史訳『告白録』教文館)。


3,律法は、罪を断罪します

 律法は本来、「いのちに導くはず」(10節)のものです。ところが8節と11節に「(罪は)機会を捕らえ」という表現があるように、罪は律法の戒めによって、機会を捕らえて、うまい具合に、律法が断罪するという機能を使って、人々を死へと導くのです。律法という完全な正しさの規準は、このように、いのちへ導く目的で定められたものでしたが、人間の罪深さゆえに、罪を暴露し、刺激し、断罪するものとなっています。その意味では、律法自体が、人を救い出すことは決してできないのです。
 では、だれが、この死のからだから、救い出してくれるのかという問いに対しては、14節以降の内容になりますが、この律法と罪との関係性を知った上で、「私たちの主イエス・キリスト」よりほかには存在しないことを確認したいと思います。律法そのものが私たちを救うのではありません。人格を持ち、今も永遠に生きておられる神の御子、主イエスだけが、あなたをその罪のどん底から引き上げて、救い出してくださるのです。