ローマ人への手紙 7:1ー6
礼拝メッセージ 2017.8.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,心の中で起こっている魂の闘争
手紙の中で自分のことについて多くを語らないパウロが、この7章を読むと、「私」として繰り返し自分を語り、彼の心の中で起こっていたことについて話しています。パウロの場合はその人生自体が、突然の劇的回心、迫害者から伝道者への転換、伝道旅行、逮捕、監禁、ローマへの護送など、波瀾万丈でした。でも彼の場合はそれだけではなく、彼の魂の中で起こっていた霊的葛藤、絶えざる精神的な格闘も、激しく熱いものがあり、彼の人生の出来事に勝るとも劣らない、心のドラマがあったことが、この7章を読むとわかります。
「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」(7:22〜23)という告白を見る時、彼の心の中で起こっていた戦いの激しさがわかります。
今回から、この7章を3回に分けて、「心の中の戦場」と題して学びますが、人間の心の中で起こっている、こうした魂の格闘ということに目を向けて、聖書の示す「恵みの下にある」幸い、主にあることから生まれる、心の平和と喜びにあずかっていきたいと思います。
2,あなたを縛っている律法の問題
心の中の戦いを見るときに、避けて通れないことが、あなたを縛る「正しさ」の問題です。人はたいてい、正しさや規準を求めます。しかし、その正しさが、自分の心や行いをさばく物差しとなり、自らに対する不全感やダメ意識に結びつき、自由を奪うことになってしまいます。その正しさを表す最高のチャンピオンが、ここで語られている「律法」です。
ここで語られている律法は、おもに旧約聖書が語る律法のことでしょう。ローマのクリスチャンたちも、旧約聖書から律法についてよく学んでいたのでしょう。あるいは、ユダヤ人もその中に大勢いたのかもしれません。しかし、同時にここで語られている律法の論議に関して、自分を縛る考えや思いとして適用することは間違いではないと思います。
律法は、福音と人間の罪からの救済を語るときに、絡んでくるテーマなので、今までもパウロは何度も取り上げて論じてきました。この7章では、律法に対する態度として、おそらく3つの姿勢があることを前提にしています。一つ目は、律法主義です。これは律法を守ることに強調点を置いた生き方です。何かのルールや原則、こうしたらうまくいくと考える人生哲学や、ある種の宗教も、ある意味では、律法主義としてとらえることができるでしょう。そして、今日の箇所7章1〜6節が、そうした律法主義の考え方に対する批判を示して、それを乗り越えるように勧めています。
そして第二は、7〜13節にある、律法主義とは反対の、反律法主義に対するものと理解できます。律法など、無視すれば良い、自由こそすべてであると考え、あらゆる戒めに対して、ノーを唱える生き方です。「恵みが増し加わるために、…罪の中にとどまるべき」(6:1)だ、と云う誤った理解です。そして第三のあり方は、14節以降におもに述べられている通り、律法を否定せず、律法の機能を正しく把握し、神の恵みの下に生きる道です。
3,キリストとの結婚
このように、律法主義とは「これを守りなさい。そうすればあなたは生きる」と考える姿勢です。でも、恵みの視点で立てば「あなたは生きている。だからこれを守りなさい」ということに変わります。私たちはもはや律法主義に生きる必要はありません。なぜなら、私たちは、キリストとともに死んだからです。死んだ私たちは、律法から解放され、自由にされています。これを説明するため、1〜3節で結婚のたとえが用いられています。
結婚は、契約関係です。結婚した夫も妻も、互いに対して不貞を働いてはなりません。夫が生きている間は、他の男性のもとに行けば、姦淫の罪を犯す事になります。もちろん、これは男性も同じです。しかし、もし夫が死んだ場合、妻は再婚する自由があります。死がふたりを分かつまで、という期限があるからです。
6章で語られてきましたように、私たちは、キリストの十字架に結び合わされました。私たちは罪に死に、律法に対しても死にました。私たちは解放されているのです。しかし、もう一つの重要な点を忘れてはなりません。それは、私たちは未亡人(やもめ)になったのではなく、新しい夫と結び合わされたという真理です。4節「それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」と記されている通り、私たちは新しい夫である、キリストと結婚したのです。
以前は、罪と律法に支配されていました。5節「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました」。「〜してはいけない」という戒めが、かえって、罪に私たちを駆り立てていたのです。
しかし、今や、キリスト・イエスが、私たちの夫、主人となられたのです。キリストは、私たちにまず、「わたしはあなたを愛している、だから生きよ」と言われます。「わたしを信じて、救いを得よ」と優しく、そして力強く語ってくださいます。このお方を主とした時、私たちは喜んで、この方の言われることに自然と従いたくなるのです。救われるために、滅びたくないために、行動するのではなく、愛する方のために何かしたいと自発的で積極的な思いが生まれ、喜びの発露として、賛美と奉仕が生まれます。
そうして、私たちがキリストのものとされたとき、素晴らしい特権をいただきます。それが、「新しい御霊によって仕える」(6節)歩みです。第一に、礼拝と祈りによって神にアクセスすることができます。第二に、私たちのすべての必要を神が満たしてくださることを信じることができます。第三に、主イエスからのケアと守りを経験できます。第四に、聖書を通して、主の御声を聞くことができます。イエスと結ばれている確信こそ、心の戦場において、平和を経験する第一の道です。