「復活はいかに起こるのか?」

コリント人への手紙 第一 15:35ー58

礼拝メッセージ 2017.1.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,死者の復活は、どのようなものですか?

復活のからだは、今持っているからだと同じではありません

 復活について、最後の大きな部分を見て行きたいと思います。死者の復活というものを誤解したり、信じられないと思っている人が、必ず抱く疑問をパウロはハッキリと言葉に出して表現しました。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」(35節)。
 信じられないという思いの原因は、ここで語られている死者の復活を、単純に、墓場から死体が蘇ってくるというようなイメージ、たとえばホラー映画で出て来るゾンビのようなものを考えているからではないでしょうか。
 しかし、死者の復活がそういうものではないことを、35節から49節までは明らかにしています。現代の私たちにはわかりにくい類比が用いられていて、なかなか、スッと頭に入りにくい内容だと思います。
 おおまかな説明をすると、一つは、復活の新しいからだは、現在、私たちが持っているからだと同じではない、ということです。原文では、39〜41節で「別である」(あるいは異なっている)という言葉が繰り返されています。ところが、復活のからだは、実はこんなからだです、と見せられる人は残念ながらおりません。そういうサンプルがあれば本当に良かったのにと思います。ですから、一番良い参考は、私たちの中ではなく、パウロが示したように、復活のからだをもたれたイエス・キリストを見ることです。
 福音書を見ると、復活されたキリストのからだは、見た目は確かに人間のかたちどおりでした。歩いたり、何かに触れたり、食べたり飲んだり、会話をすることができましたが、現在の私たちと違うところは、突然姿を現わしたり、消えたり、鍵のかかっている扉の中を通り抜けることができました。でも、間違いないことは、確かにからだを持っていて、かたちのない霊ではなかったということです。復活したイエスは、その姿に驚いている弟子たちに、こう言われました。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(ルカ24:38−39)。

復活のからだは、朽ちない栄光のからだです

 さらにここで説明されていることのもう一つのことは、復活のからだは、現在のからだとは違い、朽ちない栄光のからだであるということです。36〜38節で説明されている種や穀物の比喩はわかりやすいと思います。植物は種から生じますが、その植物について知らない人がその種を見て、どんな花や木になるのか想像できないでしょう。
 かなり前の話ですが、アメリカのセコイア公園に行って、何十メートルの高さで、高層ビルのようにそびえ立つジャイアントセコイアを見ました。世界で最も大きな樹木であるだけでなく、地上最大の生物であると聞きました。そしてその公園の売店に行けば、その木の種子がおみやげで売っていました。見た感じ特に大きな種ではありません。この種から本当にあんな巨木が育つとは全く想像ができませんでした(もちろん、巨木になるには何百年もかかるそうです)。
 復活のからだは、私たちが種を見て、そこから生じる植物をイメージ出来ないのと同じように、それがどんなからだであるのかを完全に知ることができません。けれども確かに復活のからだに、私たちはある時に変えられるのです。それは「朽ちないもの」(42節)であり、「栄光あるもの」(43節)であり、「強いもの」(43節)であり、「霊のからだ」(44節、新改訳「御霊に属するからだ」)なのです。あるいは「天上のかたち」(49節)です。間違いなく変化は大きいのですが、種がその後に芽生えて育つ植物と連続性を持っているように、主イエスの復活を見ると、そのアイデンティティーは保たれるようです。具体的なことはわかりませんが、確かに私は私であり続けるのです。


2,死者の復活を信じることが、あなたを力づけます

死は勝利にのまれた!

 20節からのところで説明しましたように、死者の復活は、キリストの再臨の時に起こります。51〜52節で、再度、それが起こるタイミングを語り、それが一瞬の出来事であると記しています。そして53〜56節で、死への勝利がやはり再度、明言されます。
 教会や教団が歴史を重ねていることから、また日本が高齢化していることから、本当に葬儀に参列させていただく機会が最近増えてきました。それで死ということをよく考えます。自分もいつか死ぬと。そしてそれは必ずしも年齢順ではありません。一休宗純が「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と詠んだと伝えられていますが、新しい一年となることは年齢を重ねることであり、一歩ずつ死に近づいているということを歌っています。人間が死から逃れることができない存在であることの諦めが感じられる歌です。しかし、聖書は、その誰も逃れられないと思っている「最後の敵」(26節)で究極の敵である死を、キリストの復活が打ち破り、「死は勝利に飲まれた」(54節)と宣言します。56節では、同じように「罪」についても取り去られる勝利が記されています。

神への感謝と奉仕の力

 青年の頃ですが、どなたから聞いたかは忘れましたが「クリスチャンは終わりから生きる者だ」ということを聞いたことがあります。「終わり」とは、私たちの究極の終わりのことです。つまり、神の約束の言葉に基づく「終わり」の希望を知って、「今」という時をしっかりと生きなさいということでした。逆に言えば、「終わり」を知らないかのような生き方をしてはいけないということです。
 パウロも復活を土台にして、「神に感謝」(57節)と語り、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」(58節)と命じています。私も必ず復活させられる、と信じて、神に感謝し、主のわざに励もうではありませんか。なぜなら、「自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」