「御手の中で」

詩篇 31:1ー18

礼拝メッセージ 2023.8.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,私の霊をあなたの御手にゆだねます(1〜8節)

 この詩篇で最も有名なことばは5節です。「私の霊をあなたの御手にゆだねます」。これは、キリストが十字架上で叫ばれたことばと同じです。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。』 こう言って、息を引き取られた。」(ルカ23:46)。イエスが十字架の上で言われたことばは、福音書に全部で七つ記されていますが、この「わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」はその七番目、つまり最後のことばとされています。主イエスもこの詩篇を愛されていたのかもしれません。
 そういうこともあって、最初の殉教者ステパノは、よく似た表現の「主イエスよ、私の霊をお受けください」ということばを残して、みもとに召されたのでした(使徒7:59)。その後、二世紀のポリュカルポス、ボヘミアのヤン・フス、マルティン・ルターなど多くの信仰者たちが、死ぬ直前に「私の霊をあなたの御手にゆだねます」と祈り、死を迎えたと伝えられています。たとえば、1415年に殉教したヤン・フスは、火あぶりの刑に処せられる時、そのことを執り行うよう立ち会った司教は、冷ややかな態度で彼にこう言ったそうです。「おまえの魂を悪魔に委ねる」、するとフスは冷静にこう答えました。「主イエス・キリストよ、私の霊をあなたの御手にゆだねます。あなたが贖ってくださった私の魂をあなたにゆだねます」と。
 詩篇作者(ダビデかもしれません)は、もちろん、生涯の終わりを予期してこのように祈ったのではなかったと思います。敵に包囲されているように感じ、危機的状況において、霊も肉体も神だけが自分のことをお守りくださることを確信して祈ったのでしょう。けれども、その後、主イエスが十字架でこれを語られてから、信仰者たちは夕べの祈り、夜の就寝前の祈りとして長く祈るようになったと言われています。詩人はあらゆる危機や危険に遭遇する中で、この祈りを捧げてきたのだと思います。人生の大事な場面で、不安を覚える時にも、このみことばは、信仰者がいつでも祈ることのできることばです。「主よ、わが霊を御手にゆだねます」。これをいつでもどんな時でも忘れずに祈ることばにしたいと思います。


2,私の時は御手の中にあります(9〜18節)

ジェットコースターのように

 二番目にこの詩篇において、大きなインパクトをもって心に響くことばは、15節ではないかと思います。「私の時は御手の中にあります」(15節)。ポピュラーなワーシップソング「イン・ヒズ・タイム」(彼の時の中で)という賛美の曲があります。新聖歌333番「神の時の流れの中で」、あるいはワーシップソング「御手の中で」として知られています。この聖句で最初に注目すべきことは、「御手」という表現でしょう。「手」(ハンド)は、これまでの詩篇にもありましたように、「神の御手」と「敵の手」とが対比的に記されています。「私の時は御手の中にあります。私を救い出してください。敵の手から、追い迫る者の手から」(15節)とあるとおりです(ほかに5、8節)。詩篇作者をひどく苦しめ、どこまでも追い詰め、心の中を恐怖で満たす「敵からの魔の手」の存在がありました。9節から13節の記述を見てください。詩人がいかに苦しみ、衰え果て、絶望のどん底にあったのかかがわかります。
 この詩篇全体の内容を、ある人はジェットコースターのようだと言いました。というのは、神への信頼に堅く立っていると思って読んでいくと、急に谷底に落ち込んでいるような表現が出て来るからです。そしてさらに読み進むとまた高き恵みの山に立っている詩人が現れます。ですから、この詩篇は統一性が見られないので、いろいろな信仰的文章をつぎ合わせたものだという学者もいます。でもおそらくそれは違います。このジェットコースターのようにどんどん高いところに昇って行き、急に真下に降って行き、そしてまた急上昇を繰り返すのが、人生というもののまさに現実であり、同時に私たちの信仰生涯を示すものでもあります。人生は、たいへん調子の良い時もあれば、何もかもが八方塞がりで、希望の光が見えず、真っ暗なトンネルをいつまでも彷徨っている時もあります。そういう失望の底で呻く人の心の状況をこの詩篇はしっかりと描いているのです。

すべての「時」は神の御手の中に

 「私の時は御手の中にあります」ですが、この「私の時」と訳された「時」とは、ヘブライ語では単数形ではなく、複数形になっています。「タイム」ではなく、「タイムズ」です。それが意味していることは、ただ一つの「時」のことを指しているのではなく、まさに人生のあらゆる「時間」のことを表現しています。これはダフドという旧約学者が言っていることです。この「時」とは、人生の諸段階の時のことであると。年齢で考えれば、子どもの時、青年の時、壮年の時、老年の時と言えるかもしれませんし、人生の中で順調に歩めている時、そして逆境で困難な時も、勝利の時も敗北の時も、ということです。すべての「時」は神の御手の中にあります。別の言い方をすれば、神は私たちの人生のすべての状況において存在しておられるということです。私たちの人生において、神を驚かせるようなことは何一つ起こることはありません。神は私たちの人生において、ご自身の計り知れない、変わることのない愛を証明されるのです。


3,私に奇しい恵みを施してくださいました(19〜24節)

 最後に、この詩篇が語る主の恵みについて見ておきたいと思います。16節で詩篇記者は言いました。「あなたの恵みによって、私をお救いください」。それに呼応するかたちで、21節に「主は、堅固な城壁の町で、私に奇しい恵みを施してくださいました。」と書いています。この「奇しい恵み」をある旧約学者が「驚くべき恵み」と訳しました。確かに21節を直訳すると、「ほむべきかな、主。なぜなら包囲される町の中で、彼の恵みは私を驚かせました。」となります。
 詩篇作者を驚かせたこの「恵み」とは、いったいどういうことであったのか、何も記されていません。しかし、続く22節では、「私は、うろたえて言いました。『私はあなたの目から断たれたのだ』と。」書いています。神を知っていても、信仰を持っていても、この詩人のように私たちも、危機の訪れに、うろたえるし、慌てるし、「もうだめだ」、「すべてが終わった」と悲嘆のうちにうずくまることもあるかもしれないのです。
 しかし、神はどんなことが起こっても、私たちを見捨てることはないとこの詩篇は確信のことばを宣言します。それが、これまで見てきた「私の時は御手の中にあります」であり、「私の霊をあなたの御手の中にゆだねます」でした。神の恵みは何があってもなくなりません。決して尽きることも消えゆくこともない確かなものです。ですから、私たちは「主を愛しましょう」(23節)、そして「心を強くしましょう」(24節)と他の方々に対して、声を大きくして語り告げることができるのです。