「御心を行わせる平和の神」

ヘブル人への手紙 13:18ー25

礼拝メッセージ 2026.2.8 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,祈りの要請

 今回のこの書の終わり部分においても、私としては発見というか、驚きを感じたことが記されていました。最後の最後にこんな爆弾が仕掛けられていたんだと思ったのです。ふつう本の「あとがき」にあるように、ここで著者は、実際的で個人的でもある内容に触れています。書かれた文章を読むと、誰かはわかりませんが、このヘブル書の著者と、そして宛先の教会とのリアルな関係が見えてくるように思いました。18節と19節を見ると、ここで著者は「祈ってください」と祈りの要請をしています。パウロの手紙にも多くの「祈ってください」ということばがありましたが、ここでのリクエストの仕方は独特です。それは「私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと思っているから」、祈ってほしいということです。お祈りをしてほしいと、私たちが誰かにお願いする時、自分は正しい良心で行動しているから祈ってほしい、なんて言わないと思います。おそらく、これは著者が「自分は正しい良心をもって、正しく行動しているので、どうか誤解しないで欲しい」と弁解しているように見えるのです。
 つまり、この著者と宛先の読者たち(教会)との間に、物理的距離だけではなく、心理的距離、心の隔たりが両者の間で感じられていたということです。言い換えると、牧師と教会員との間に何かしっくりいかない状況が起こっていたと考えられるのです。残念ながら、具体的にどのような問題であったのかは、わかりません。
 しかし、19節に「あなたがたのもとに早く戻れるように」と語っていることが関係しているとすれば、これは何かの事情でヘブル書の著者が、この宛先の教会から長期間不在にしていたのではないかと推測することもできます。もし、そうであるなら、教会の中で、「なぜあの先生はずっと我々から離れたままなのか」、「私たちのことを見捨てているのか」という疑念が起こり、両者の信頼関係に亀裂が生じたのかもしれないということです。


2,祈りの力

 ここから教えられることは、祈りの力です。これこそ、この聖書箇所が明らかにしている最も重要な点です。著者と教会との間に何か問題があったのかもしれないですが、著者はこう言います。「私たちのために祈ってください」、「なおいっそう祈ってくださるよう、お願いします」と。そうです。私たちには、お祈りすることができるのです。いろいろな問題が押し寄せてくる時、どう乗り越えられるのか、解決の糸口も見つからない時、絶望したり、自暴自棄とならず、神様に求めましょう。
 民数記16章に、モーセが窮地に立たされた場面が描かれています。会衆の中で有力な人たちが集まり、モーセの指導に対して異議を唱え、そのリーダーシップを批判し、彼を引きずり下ろそうとしたのです。モーセはこの事態にどう対処したのでしょうか。民数記16章4節を見ると、「モーセはこれを聞いてひれ伏した」と書いています。もちろん、これは人々にひれ伏したのではありません。神様にひれ伏して、祈ったのです。
 ヒゼキヤ王のことも思い出されます。アッシリアに攻め込まれて、国が絶体絶命の危機に瀕して、アッシリアの将軍ラブ・シャケから、ありとあらゆることばで罵りを受け、全面降伏するように脅されたとき、ヒゼキヤ王は何をしたのでしょうか。主の宮に入り(Ⅱ列王19:1)、預言者イザヤからみことばを得ました。そして敵の使者から手紙を受け取り、ヒゼキヤは「主の宮に上って行き、それを主の前に広げ」、そして祈ったのです(同19:14、15)。私たちも、自分も主の御前で祈り、そして他の人にも祈ってもらいましょう。


3,祈りのことば

 著者は自分たちのために祈るように言った後、自分も祈っていることを、その祈りの内容を伝えることで示しました。それが20節と21節です。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように、栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。」
 このお祈りで特徴的なことは、まず、イエス様のことが強調されていることです。「永遠の契約の血」ということばで、イエス様が永遠の大祭司として、自らがいけにえとなってただ一度ご自分をささげて、その血を流してくださったことが示されます。そして「羊の大牧者」という表現で、そのイエス様が私たちの最大の羊飼いでいてくださること、合わせて「死者の中から導き出された」とは、ご復活されたお方であるということです。
 たとえ、人間の罪、弱さ、限界を痛感していたとしても、私たちにはイエス・キリストがおられるのです。このお方は、人類最大の問題、罪を解決し、悪と死の力を滅ぼした方です。何も不可能なことはない方です。このお方を前にして、跪いていつでも祈ることができる。その恵みをこの祈りは教えてくれます。
 そればかりか、このお祈りのことばが示していることは、その素晴らしい神様が、そしてイエス様が、実は私たちのうちに御力をもって働いておられ、それによって私たちは整えられるし、神のみこころを行うことができると言っています。目には見えないことですが、神は私たちの間で働いているということです。だからそう祈って、委ねることができます。
 ヨーロッパで宣教している人から、興味深い話を聞いたことがあります。宣教師である彼らはノンクリスチャンの方々を誘って、サークル活動で交わりを持ちます。そして仲良くなり、様々な心配事や課題をお聞きするそうですが、それをお祈りし、ずっと祈り続けるのだそうです。そうすると、ある時にその方々から祈りが聞かれたと言って、信仰に導かれていくということでした。つまり、祈りの力を経験して、神を知ってもらうということでした。
 22節から24節を見ると、この信仰と祈りによる神に繋がったネットワークは、この書の時代から現代に至るまで続いています。目に見えないこのネット(網)は、現代のテクノロジーが生まれる遥か以前に、キリストにあって別のかたちで存在していました。テモテの釈放が知らされ、著者とテモテがやがて読者たちの教会に赴くことになるでしょう。著者の近くにいるイタリアから来た信仰者たちからも、読者へ向けて主にある挨拶のことばが届いています。神の愛と恵みが、この時代のキリスト者たちをつなぎ、聖徒の交わりを実現していたのです。またみことばという媒体を通して、その御霊の交わりは現代の私たちにまでつながれていることがわかります。