「律法によるか、信仰によるか」

ガラテヤ人への手紙 3:1-14

礼拝メッセージ 2022.7.31 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.律法を行ったからか、信仰をもって聞いたからか

 パウロは「愚かなガラテヤ人」と厳しく非難しています。「愚かな」という言葉は「理解が足りない」「道理が分かっていない」と訳すこともできます。パウロは彼らの福音に対する無理解ぶりを嘆いています。「だれがあなたがたを惑わしたのですか(1節)」と、ガラテヤ人たちの信仰をかき乱した者たちに憤慨している様子からは、パウロが彼らに焦れったさや少なからずの苛立ちを感じながらも、愛情をもって戒めていることが伝わってきます。
 パウロは、「御霊を受けたのは、律法を行ったからであるのか、それとも、信仰をもって聞いたからであるのか(2節)」と、ガラテヤ人たちの聖霊体験に訴えています。「御霊が与えられたのは、律法を守り行った結果ではなく、福音を聞いてキリストを信じたからではないのか」と確認しているのです。
 ガラテヤの教会には、ユダヤ人のキリスト者も、異邦人のキリスト者も集っていました。今となってはキリスト者であることについて国籍や民族が問われる例は稀ですが、当時、異邦人は偶像礼拝をしている人々であることから、宗教的に汚れていると見做されていました。偶像礼拝によって汚れていたり、割礼を受けておらず律法を守らないでいたりしたので、まさかそのような人たちに御霊が降るとは考えられていませんでした。しかし、キリストの復活後の時代から、割礼を受けていない異邦人に聖霊が降るという出来事が起こり始めます。そして、キリストの弟子たちは、キリストが十字架の死と復活によってもたらしてくださった福音の真髄を理解し始めていくことになりました。
 パウロはキリストの十字架の死と復活による恵みについて鮮明に宣教してきたつもりでした。しかし、その後、ガラテヤの教会にかき乱す者が入り込んで、パウロの教えた教理を非難し、モーセの律法を守ることが救いを得るための必要条件だと教えて、ガラテヤの教会の人々はそれらを受け入れるようになってしまいました。
 そんな彼らに対して、パウロは矛盾を指摘しています。「御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか(3節)」。福音を聞いて信じ、御霊を受けたことから始まったのに、なぜ割礼を受けて律法を守ることによって完成すると考えているのか、御霊によって完成されるべきではないかと訴えています。
 私たちも、キリスト者の一員とされている理由について、確認する必要があるでしょう。私たちが何かをしたからではありません。キリストの愛と恵みを受け取っただけなのです。「キリスト者だからこうあるべき」というものはありません。律法に縛られるのではなく、キリストの愛に応えていくなかで、主が私たちに与えてくださったみおしえの素晴らしさを経験していきたいと思います。


2.「義人は信仰によって生きる」ということ

 パウロがガラテヤの人たちに教えている福音理解は、自分が勝手に付け足した教理ではないことを主張しています。パウロの時代になって突然付け足されたような神の価値観ではありません。律法が重んじられていたアブラハムの時代から、神様に義と認められたのは「信じる」という信仰によるものでした。それだけではなく、ユダヤ人が神様に選ばれて導かれていた時代から、神様はアブラハムに対して「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と告げておられます。
 アブラハムが「信じた」というのは、彼が高齢になっても跡継ぎがいなかった状況で、彼の子孫が夜空の星の数ほどふえることを神様が約束なさったことについて「信じた」ことです。アブラハムは、神様の導きによよって様々な試みを通ることになりますが、信仰によって神様に従ってきた人でした。
 アブラハムの人生については、ガラテヤの教会の人たちも、パウロ自身も回心する前から知っていたことでした。しかし、多くの人は信じることによって神に従ったアブラハムの「行い」に注目していたようです。アブラハムは神様との契約のしるしとして割礼を命じられた通りに受けて、神の戒めを守っていました。そのような偉大なアブラハムだからこそ、イスラエルの民の祖として選ばれ、祝福を受けたのだと理解されていました。
 しかし、律法を守り行うことによって義と認められると理解するならば、だれも神様に受け入れていただくことはできません。「律法によって」救われるのならば、すべての人が滅びることになります。パウロは3章1節から「十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」と嘆いていますが、ガラテヤ人たちをかき乱す者たちの議論には「十字架につけられたイエス・キリスト」のことが抜け落ちていたと考えられます。
 申命記21章23節の律法では「その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」とあります。イエス・キリストが死なれた十字架刑はまさに神ののろいの象徴でした。しかし、のろわれた者として死んだはずのイエスと出会ったパウロは、私たちが負うべきのろいをキリストが肩代わりしてくださったことを知りました。ですから、律法の意味を理解しようとせずに、むやみに律法を守ろうとするならば、キリストが私たちを律法ののろいから贖い出してくださったということを蔑ろにしてしまうことになります。
 私たちはただ信じることによって御霊が与えられ、キリスト者とされている恵みを覚えていたいと思います。