「弟子となる人々」

ヨハネの福音書 1:43-51

礼拝メッセージ 2023.11.19 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


イエスの弟子たち

 イエスは単独で宣教の働きをされたわけではありません。イエスはその弟子たちとともにご自分の働きをなさっていきました。マルコ福音書には男性の12人の弟子たちの名前が挙げられていますので、イエスの弟子はこれだけと思っている人も少なくはないでしょう。しかし、聖書はその他の男性の弟子たちや女性の弟子たちがいたことを示唆しています。またイエスと寝食をともにする弟子たちと、それぞれの生活の場でイエスの弟子となった人々がいたことも読み取ることができます。


イエスの最初の弟子たち

 新約聖書には4つの福音書が各々、最初の弟子たちがどのようないきさつでイエスの弟子になったのか、そのことを述べています。ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネの弟子たちがイエスに従い、その一人であるアンデレが兄弟シモン(ペテロ)をイエスに紹介しています。また、イエスはアンデレとペテロの同郷のピリポを弟子とし、ピリポは兄弟ナタナエルをイエスに会わせます。最初は、イエスの師であるヨハネから始まり、地縁血縁でイエスの弟子が集まったことが書かれています。もちろん、後にイエスの弟子たちはそのような地縁血縁を超えて広がっていくのです。


イエスとナタナエルとの出会い

 ピリポからイエスを紹介されたナタナエルは、最初はイエスをあまり評価しません。それはナザレという地名を聞いたからです。それは土地に対する偏見でした。そのような中で、イエスは自らナタナエルに声をかけ、彼をほんとうのイスラエル人だと言います。逆に、ナタナエルはイエスをラビ(先生)、神の子、イスラエルの王と呼んでいます。互いを評価しているその経過の詳細は述べられていません。しかし、ヨハネ福音書はその出会いの意味を語ります。ナタナエルはイエスと実際に会うことで、イエスに対する偏見を克服できました。またイエスは、これからナタナエルが目撃し経験するだろう神の救いを語ります。


弟子であること

 イエスの働きを考える上で、弟子が存在したことは思う以上に重要です。まず、人を通して神は救いを実現されることが分かります。もちろん救いは神がなさることで、個々人の決断も求められます。しかし同時に、救いは人を介して実現されるのです。それは、神が宣教を人間に託したからです。罪を犯して神に逆らう人間を信頼し、神は自らの言葉と業とを人間に委ねたのです。人間は同じ人間の言葉や行いに傷つくことはあっても、やはり人間の言葉でしか生かされないのです。日常の生活で誰も孤立して生きることはできません。ここに、神が私たち人間に宣教の言葉と業を委ねた理由があるように思います。人は人を介して神に出会い、だからこそ神を信頼することができるのです。
 ご自分の弟子たちをイエスは家族と呼んでいます(ただし、現代の感覚では仲間と呼んだ方が良いかも知れません)。信頼を基礎とする人間関係に神は働き、そこに宣教の業を委ねます。イエスの弟子であることは、単にイエスとその弟子との個人的なつながりだけではありません。弟子同士の関わりも重要なのです。弟子であることはその師匠に従うことですが、イエスが人を救うというのであれば、弟子である者もその救に参与するように求められます。私たちは各々がそのために用いられると同時に、互いの繋がりを持ちながら用いられるのです。