ダニエル書 8:15ー27
礼拝メッセージ 2024.11.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,密室のダニエル
幻視経験
7章から始まった幻と預言に目を通していく時、預言内容だけに目が行きがちですが、私はここに「密室のダニエル」が映し出されていることに注目しています。「密室のダニエル」とは、彼が神とどのように霊的交わりを持っていたかという誰も知り得ない彼の姿です。6章までの話でダニエルは、権力者の前で脅されても、殺されそうでも動じず、常人離れしたように見えていました。しかし7章以降、彼自身の告白文章に変わり、彼が悩み、恐れ、苦しみ、病気で倒れる等、内側をさらけ出しています。15節以降を見ると、御使いたちとの接触があったことがわかります。この御使いはガブリエルで、ご存知のとおり、マリアに受胎告知を行なった天使です(ルカ1:26)。ダニエルはガブリエルが来たとき、「おびえて、ひれ伏しました」。彼の語りかけを聞き、「地にひれ伏したまま意識を失いました」が、ガブリエルが「触れて」「立ち上がらせて」くださったとあります。
現代の私たちから見れば、ダニエルが味わったようなことは普通のことではなく、全く異常な体験でしょうし、そういう体験をせよと聖書も勧めているわけではありません。ただ、私はこうしたダニエルの霊的経験の中に、神との深い交流、豊かな祈りの生活の一面を見るのです。ダニエルの経験は、預言者エゼキエルや、パトモス島に流されたヨハネにも見られます。これらは緊急事態的な時代、異常な社会状況において、神が特別に許され、与えた霊的体験であったと思います。しかし、これはダニエル書が語る普遍的なメッセージという視点で捉え直すと、単に特殊状況の中での特殊な人々に対する取り扱いにとどまるものではなく、すべての信仰者が持つべき神との強力な結びつき、神との深くて大きな絆を示すものではないかと思うのです。
神の愛に結ばれている信仰
以前に触れましたように、ダニエル書の中心に据えるべきことばは、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの告白した「もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。…しかし、たとえそうでなくても、…私たちはあなたの神々には仕えず、…」(3:17〜18)だと思います。これはダニエルの信仰でもあったことでしょう。祈って願ったことで「救い出されるのか」、「救い出されないのか」という、二つの「もしも」であり、特に後半の「たとえそうでなくても」ということばは、信じないとわからない神秘だと思います。
結果的にこの三人は前半の「もしも」の奇跡が起こり、救い出されました。しかし、たとえば主イエスは、ゲツセマネの祈りで「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが…」(マルコ14:36)と祈り願われました。けれども、結果は「この杯」は取り去られず、十字架にかかられました。ならば、なぜ「たとえそうでなくても」と言えるのか、なぜ「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが」と祈れるのか、ということですが、聖書が語っているのは、これが信仰というものであるということです。そこに神と愛で結ばれた人格的関係が見えます。神が人間の祈りや願いを聞くだけの崇拝対象から、信頼して心から愛し得る方となるのです。それが「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)という信仰です。幻や預言が与えられるというダニエルの信仰体験の中心には、このような神を愛する信仰があったのです。
2,反キリストが台頭する世界で
アンティオコス・エピファネス
さて、8章には「雄やぎ」ギリシアから出る「一本の小さな角」と象徴される「王」の到来が記されています。これはセレウコス朝シリアの王アンティオコス四世(在位:前175−164年)という人物を指すとされています。彼の出現はイスラエル民族がそれまでの歴史で経験しなかったほどの最大の宗教的迫害をもたらしました。彼は律法の書を火で焼かせ、安息日や割礼など律法に従う生活を禁じました。エルサレム神殿の財宝を略奪し、ゼウスの像を建てて異教祭儀を行わせ、参加しない者や律法を守ろうとする者は徹底的に処刑していきました。
また、「君の君に向かって立ち上がる」の「君の君」は「神」を指しています。そのお方に対抗してアンティオコスが立ち上がるということなので、これは自らを神とすることにほかなりません。彼の異名「エピファネス」は日本語では「現神王」と訳され、「神の現れ」という意味です。多くのキリスト者たちは、これまでこの人物に終末時代に出現する「反キリスト」を重ねて見てきました。それは正しいことでしょう。しかし、ダニエル書がこれまでも述べてきたように、やがて裁きがあり、終わりの時が来ます。25節「しかし、人の手によらずに彼は砕かれる」のです。古代の証言では、アンティオコスは内臓の病気を患い、激痛のうちに死を迎えたということで、人の手によらずに彼は砕かれました。
神の歴史の途上に立つ
この箇所で目立つ表現は、「立つ」ということばです。御使いがダニエルの前に「立ちました」(15節)。ダニエルの「立っているところに」ガブリエルが来ました(17節)。ダニエルは意識を失い倒れますが、ガブリエルはダニエルを「立ち上がらせました」。このダニエルが伏して立ち上がらせられたことと、対照的に描かれているのが、「横柄で策にたけた一人の王が立った」ことです(23節)。彼は「君の君に向かって立ち上がる」のです。しかし最終的には砕かれ倒されます。ダニエルは立ち、アンティオコス、すなわち反キリストも立つのです。けれども一方は立ち上がらせられ、他方は自分で立ち上がったかのように見えるが倒されます。ある説教者はこのダニエルのあり方を「途上に立つ」と表現しました。後の時代の困難さが御使いによって語られ、ダニエルは驚きすくみます(27節)。これから後にたいへんな患難と苦しみの時が迫っていることを悟ったからです。彼はその未来を理解することを願いました(15節)。しかし、理解できなかったのです(27節)。
時代の先を見通したい、神ののご計画を知りたい、誰もが思うことです。しかし、ダニエルにはそれができませんでした。おぼろげに分かることは「獅子」、「熊」、「豹」そして次の「獣」へ、と時代は変化を繰り返し、そして敬虔に生きようとする者たちには苦しく困難なことが待ち受けているかもしれないということです。しかし19節が語るように、それは「終わりの定めの時」です。新共同訳聖書によれば、「定められた時には終わりがある」ということです。「そのとき聖所の正しさが確認され」(13節)、「人の手によらず彼は砕かれる」ことになります。信仰者は誰もダニエルのようにそれが理解できずとも、神の歴史の途上に立ち、そして主と交わり、歩き続けて行くのです。