「平和の宣言」

イザヤ書 2:1-5

礼拝メッセージ 2016.10.16 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


「終わりの日」の幻

 預言者たちは神の救いの約束を語ります。預言者たちの救済の言葉はあまり具体的ではなく、比喩や象徴的な表現を使用することが多いようです。従って、文字や文章の中に込められている、神による救いの約束の意味を理解する必要があります。「終わりの日」は、神が行動を起こし、現実がひっくり返って神の救済のビジョンが実現する日を意味しています。この世界が終わる日とは限りません。もちろん人間は神に逆らい、その意思に従うことなど現実にはありそうにはないので、それに対照する表現として「終わりの日」の表現が用いられています。


神のビジョン

 では神の救いのビジョンとは何でしょうか?ヤハウェを礼拝しない人々が集まり、ヤハウェの語る言葉に従うとあります。イスラエルはヤハウェによって救われていたのに、彼らはヤハウェに逆らいました。諸民族は神ヤハウェを知りませんでした。そのようなイスラエルも諸国民もヤハウェの下で、その意思に生きることを選ぶのです。平和を選び取るのです。戦争の道具を農具に変えて、互いに協力し合って生きていくことです。平和を保つ限りにおいて、互いに脅かすことはなくなります、互いに恐れる必要は消えるのです。
 外に出て行って神の言葉を宣言する新約聖書のイメージとは対照的に、旧約聖書における神の言葉の伝達・宣言は求心的であると言われています。神の逆らった人々が神の下に集まって来るのです。


平和の実現

 4節の言葉はミカ書4章3節にも登場します。当時、人々の間で語られていた言葉であったと思われます。旧約聖書が描くイスラエルの歴史は戦いの連続で、血塗られていました。ある場合は、自らを守るための戦争でした。ある場合は、他国を支配するための戦いでした。確かに、旧約聖書において、ヤハウェの名によって戦争をし、敵の殲滅を肯定する記述は存在します。イザヤ書2:4とは全く反対の言葉がヨエル書には記されています。しかし、古代の中東を考えると、古代イスラエルが戦いに巻き込まれ、その戦乱の中で人々が苦しんでいたことは容易に想像ができます。戦いに勝利しても、対立と不安は拭えません。人々に安心と祝福をもたらすのは平和です。古代イスラエルの人々はその平和の意義を身に染みて感じていました。人々が生きていくためには平和が不可欠です。だからこそ、ヤハウェは自らの価値観の実現として平和を希求します。
 しかし、旧約における平和の意義はもっと広いものです。戦いがないことだけではなく、人々がまともに暮らしていけることが平和です。もし誰かがひどい扱いを受けていたとするならば、神はその人々を苦しみから解放しようとします。それは、エジプト脱出の記述に見られる、奴隷解放の神の考え方です。飢える人がいないようにする、誰もが人間らしい扱いを受けるようにする、そのような社会作りがイスラエルに課されていました。それは契約の目的の一つであり、律法にその内容が記されています。神を中心として互いに大切にし合う関係は、新約聖書にも継承されて、教会の理想でもあります。旧約に述べられている平和の理想は、福音の内容そのものと言って良いでしょう。
 「終わりの日」すなわち神の価値観が実現することに、神の行動の開始に、この広い意味の平和が成り立ちます。でも私たちはそれを理想に過ぎないと思うかもしれません。確かにそうです。預言者たちの「終わりの日」の救いは私たちの力ではなしえません。でも、神を大切にし、互いに大切にし合う、それゆえに人々が人としてまともに暮らしていくことが神の意思であるならば、私たちもそれを求め、自らの生き方の土台にする努力は可能です。平和の宣言は、理想でも、そこに追いつかない諦めでもありません。神の価値観が示されていることであり、そこを基盤に生きることです。