「平和の君」

イザヤ書 11:1ー10

礼拝メッセージ 2019.12.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,希望を持てない世界で

 ジョン・レノンが1971年に発表した「イマジン」という有名な歌があります。キリスト教や信仰の事柄を否定した内容ですが、多くの人々を今も惹きつける歌詞です。「想像(イメージ)してください」と始まります。そのあと、「〜なし」という表現がたくさん出て来ます。天国なし、地獄なし、国なし、殺す理由なし、死ぬ理由なし、宗教なし、所有なし、貪欲なし、飢えることなし、そのようになって、みんなが平和に生き、すべてを共有し、世界が一つとなって暮らすという理想です。キリスト者である私からすると、これをそのまま理想とすることはできないのですが、彼が思い描いた世界の平和と共存の姿は、確かによくわかる気がします。しかし、彼の示したイマジンの理想を遥かに上回るものが2700年前にすでに書かれていました。それが預言者イザヤのことばです。
 パレスチナ地域は、北はアッシリア、南はエジプトという文明の進んだ大国に挟まれたところでした。7章を見ると、この北の脅威に対抗するために北部イスラエルはアラム(シリア)と同盟を結び、南部のユダにもそれに加わるように圧力をかけ、侵攻してきました。それで南部のユダはかえってアッシリアに助けを請いました。オズワルトという学者が、これは、ねずみが猫に、別の猫を追い払ってもらいたいと助けを求めたのと同じであると表現しました。そのとおり、アッシリアはその後ユダにとって大変な脅威となって、国としては存亡の危機に向かっていくことになります。イザヤ書を記した預言者イザヤが活動した時期の王様は、幾人かいましたが、この11章の背景となっている状況のアハズ王、それから後に出て来るヒゼキヤ王、どちらも信頼できるような王様ではありませんでした。アハズは不信仰な人で、ヒゼキヤは頼りない王でした。社会の不安定さは、不正がはびこる原因ともなって、特に貧しく弱い人々が苦しむ結果を生みました。民の道徳感覚も信仰も低下していました。1章4〜23節にそれがどんなにひどい有様であったのか、イザヤが指摘している内容から察せられます。


2,正義を行う王が来る(3〜5節)

 多くの人はこの世界で、善なることが実行され、正しい判断がなされ、裁きが行われることに対する強い欲求を持っています。特に、自分や自分の身近にいる人が、不当な苦しみや不正な評価がされることに対しては、強い怒りを抱きます。人間の幸せの基盤には、生きている世界において、正しさや義が保たれていることが絶対条件なのです。3節の「その目の見えるところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず」というのは、人間の見かけ上の正しさによってではなく、真の正しさが行われることを意味しています。4節の「正義」、「公正」、5節の「真実」も、人間であれば間違った判断や見方をしてしまうが、そうではなく、すべてを見通しておられる神であるお方が正しいさばきを行ってくださることを示しています。絶対的に正しい基準を持つことのできるお方が王として来られるのです。


3,平和をもたらす王が来る(6〜9節)

 狼と子羊、豹と子やぎ、子牛と若獅子、雌牛と熊、乳飲み子とコブラ、乳離れした子どもとまむし、これらがお互いに食うか食われるかの関係ではなく、ともに安心して生きていける世界が描かれています。肉食動物が草食動物を食べて生きていくというのは、自然界では当たり前のことです。それを禁止したら、肉食動物は生きていけなくなります。また、草食動物の数が増加しすぎて、自然界のバランスが崩れるかもしれません。しかし、ここで語られていることの中心は、王であるメシアが支配するときに、地上に実現していく平和のかたちがどんなものであるのかを明らかにしていると考えられます。今の世界ではどのように変えることもできない難しい状況が、この平和の君が来られる時、真の解決へ導かれていくのです。殺し、殺される関係から、共生共存できる関係へと、メシアが新たに創り変えてくださるというメッセージです。


4,エッサイの根株から出る王が来る(1〜2節)

 では、そんな理想的な方はどなたであるのか、ということを明らかにすることばが、サンドイッチ的な文章構造で、1〜2節、そして9節後半〜10節に示されています。それは、「エッサイの根(株)」です。聖書をご存じの方は、この「エッサイの根」とは、キリスト預言であることを知っておられると思います。一つの注目点は「ダビデの根」ではなく、どうして「エッサイの根」となっているのか、ということです。ここは、ダビデの子孫から出るメシア(キリスト)を示すのではなく、むしろ、「新しいダビデ」として、聴衆や読者に示す意図がありました。イザヤを通して神が示したメシア像は、過去の素晴らしい伝説的で偉大なダビデ王というものが再来するというようなことではなく、力強くこの世界の変革を必ず成し遂げられることを約束するものでした。
 しかも、イザヤがその新しいダビデとして示す方は、「根株」から新芽が生え出て、実を結ぶという不思議なものです。6章で主から示された幻、切り倒された木の切り株から生じるというようなものだったのかもしれません。すべてが失われたように見える希望の見えない状況の中で、新芽が生え、若枝が生じ、実を結ぶのです。そしてそのお方こそが、イエス・キリストであることを新約聖書は明らかにしています。


5,主を知る知識を与える王が来る(9〜10節)

 2節を見ると、この預言されているお方には、「知恵」、「悟り」、「思慮」、「力」、「知識」の霊がとどまると書いています。主を知る知識を与えることが、この王、メシアであるお方がもたらしてくれる大いなる恵みです。新約聖書でヨハネは、それゆえこの方を「ことば」(ロゴス)と表現しました。主を知り、主を恐れることを教えてくれる知恵、その源である方として、メシアであるこの王は私たちのところに来てくださいました。ルカの福音書で、イエスは故郷ナザレの会堂に入り、イザヤ書61章を朗読されました。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。…。」そして、人々に向かって「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」と宣言されました(ルカ4:16〜30)。主を知る知識が世界中に満ちていくことを、計画され、今も実現するように導いておられる、この平和の君を今、心にお迎えしましょう。