ローマ人への手紙 10:14ー21
礼拝メッセージ 2017.12.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,救いのために宣べ伝える人が必要です(14〜15節)
主の御名を呼び求める者はだれでも救われる
ロイドジョンズ師の『ローマ書講解』(Romans)にあるように、この10章は、救いの信仰(saving faith)について記されています。前半では、すべての人が救いの恵みにあずかれることが説かれて来ました。そしてそのまとめとして、12節で「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです」と述べて、その真理を明確にする意味で、ヨエル書の預言が引用されて、『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』と書いています。
これは、本当に驚くべき喜びの知らせです。この『だれでも救われる』は、大きな励ましと力を与える神からの約束の言葉です。ユダヤ人でなければといった、何か生まれながらの条件が全く不要なのです。本当に、だれにでも救いの門は開かれているのです。
パウロが14〜15節で記している順番で見ると、あることが起こるために、このことがなくてはならない、という流れで語っています。まず、人が救われるためには、主を呼び求める必要がある。でも主を呼び求めるためには、主を信じる必要がある。でも主を信じるためには、みことばやメッセージを聞く必要がある。でも聞くためには、宣べ伝える人がいなくては聞くことができない。でも宣べ伝える人がいるためには、その人が遣わされなくては来られない、という流れになります。ですから、元を正せば、遣わすことが第一に必要であるとの結論です。
遣わされなくて、どうして宣べ伝えることができるでしょう
繰り返しになりますが、この9〜11章は、イスラエルの救いがテーマで語られて来ています。そしてパウロが格闘している問題は、なぜイスラエル人が救われていないのか、ということでした。10章の前半の13節までで、『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』ということを語りましたから、それならばなぜ、イスラエルが救われていないのか、という疑問に対する答えが、この14〜15節で言われていることなのです。神がイスラエルを選ばれたのに、どうして救われていないのか、神は正しくないのか、という問いに対する反論なのです。結論を言えば、神は、義なる方で、全く正しいとパウロは言います。なぜかと言えば、神は、宣べ伝える人、預言者たちを、彼らのもとへ、何度も、何人も、多くの時代に渡って、遣わして来られたからです。
2,救いのためにみことばを聞くことが必要です(16〜21節)
みことばを聞くとは?
2番目の点は、遣わされ宣べ伝える人がいたのに、なぜ、イスラエルの人々は福音に従わず、信じなかったのか、ということです。16〜18節を見ると、「聞く」という表現が繰り返し使われています。16節のイザヤの引用は『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。』(第三版)となっていますが、新しい2017版では、『主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか』に変わりましたが、「聞いたこと」という表現が確かに原文にはあります。そして、17節の「信仰は聞くことから始まり…」と続きますように、4回「聞く」という語が使われています。
なぜ信じなかったのか、ということの大切な答えは、「聞く」ということにありました。みことばをどう聞くかということです。現代ではわかりやすく、みことばを聞くというより、読むというふうに理解もできると思いますが、聖書が示していることは、やはり読むことではなくて、聞くことなのです。当時のイスラエルの人たちは、律法を、あるいは今で言うところの旧約聖書を良く読んでいたし、暗唱し、学んでいたのです。ところが、パウロがここで指摘しているところによると、彼らはみことばを聞いていなかった、あるいは聞けていなかったということです。
私たちも聖書を読みます。また、聖書を勉強します。でも、もしそれが単なる表面的な内容理解であったり、かつてのイスラエルのように規則や原則を律法主義的に、法律の条文のように読むならば、それは聖書を読んでいるだけで、神のことば、神の御声として聞いていることにはならないのです。私たちが聖書を読む時、神の御声をそこから聞き取るように、霊の眼を開け、心開いて聞き続けることが必要です。聖書から、神のことばを聞き取らなくてはならないのです。聖書は、生ける創造主なる神と出会う、窓であり、扉なのです。
聞くことは、キリストについてのみことばによる
17節では続けて「聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と書いてあります。聖書を神の声として聞く時に明らかになることは、みことばをキリストのことば、キリストについてのことばであるということを受け入れなくてはならないのです。当時のイスラエルの人たちは、その点で、神からの語りかけを聞けていなかったのです。
16節で引用されているイザヤのことばは、イザヤ書53章からのものです。イザヤ書53章は「主のしもべの歌」と言われています。この主のしもべは、「私たちの病を負い」「私たちの痛みをにない」「私たちのそむきの罪のために刺し通され」「私たちの咎のために砕かれた」方です。メシアである方がそのように私たちの罪のために苦難を通され、砕かれるということを彼らは理解できていなかったのです。聖書のことばを、キリストのことばとして読むと、私たちは皆、だれでも罪ある人間であることが明確になって来ます。キリストの十字架が無くては、このメシアなるお方の贖いのわざが無ければ、私たちは救われ、癒され、神のみ前に回復することができません。それゆえ、主の前に謙り、跪いて告白するのです。「イエスは私の主である」と。
聖書をキリストのことばとして聞くならば、当然、私たちの罪のために十字架に架かられたイエスを、主と告白することに至るはずなのです。「イエスを主とする」というのは、最も短い信仰告白(Ⅰコリント12:3、ピリピ2:11)ですが、私たちの生き方を変える非常に大きなことばです。
そしてイスラエルにしても、異邦人にしても、神の大きな恵みの御手は伸ばされ続けているのです。20〜21節のイザヤの預言が引かれて、異邦人という、本来「わたしを求めない者」「わたしをたずねない者」であった彼らに、神はご自身を現し、救いの恵みを与えられました。同時に、イスラエルに対しては、神は、不従順で反抗的な彼らを見捨てることなく、「一日中、手を差し伸べ」ておられるのです。