マルコの福音書 1:35-39
礼拝メッセージ 2020.7.26 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
「出て来た」
イエスの宣教は、言葉と業によってなされていきました。本日は、宣教の言葉とその意味について見ていくことにします。
イエスは祈りに出かけています。当時の祈りは、時間と回数、祈る内容も決まっていたと考えられます。祈る姿勢はいろいろあって、基本的には立つか、ひれ伏すことが多かったようです。ひざまずくことも聖書には記されています。祈りは、個人的な礼拝と言った方が良いかもしれません。イエスが祈る姿は福音書の中でいくどか記されていますが、祈りの内容についてはほとんど何も述べていません。例外的に、マタイ福音書の「主の祈り」やゲッセマネの祈りはその言葉を記録しています。ゲッセマネの祈りは特別な出来事です。「主の祈り」はイエスの祈りに対する考えを述べています。
弟子たちはイエスを捜していたようで、イエスを見つけると声をかけます。それに対してイエスは、町や村に出ていくように提案します。そしてそこで宣教すると言っています。そして、そのために「出て来た」とも言います。イエスはどこから「出て来た」のでしょうか?寂しいところです。それは祈りの場所であるとともに、イエスが洗礼を受け、ヨハネが活動していた場所でもあります。誰もいないところに人々を招いて、そこで神の働きを行うのではありません。むしろ人々の中に入って行って神の言葉を語り、業を行うことを示した「出て来た」というイエスの言葉です。イエスにとって人が大切でした。
宣教の場所
イエスはガリラヤ地方をめぐって宣教をしました。しかし、基本的にはその地域の範囲で宣教は収まっています。北方にある外国へ出かけたことが二度ほど記されてはいますが、例外的です。ガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ地域以外の宣教についてイエスが直接的に語っている場面はほとんどありません(復活のキリストは宣教の拡大について命じていますが)。他の文化地域への宣教はイエス自身が行うのではなく、その弟子たち(つまり教会)に委ねられました。
言葉の意義
宣教という働きにおいて、言葉は重要な要素です。第一に、言葉は出来事に意味付けすることができます。例えば、旧約聖書には、海が割れてイスラエルの民がその渇いた海底を渡っていった事件が記されています。ある人々は、科学的に海が分かれたメカニズムを解明しようとしてきました。しかし、イスラエルの人々はそのような説明を試みずに、神ヤハウェがイスラエルを助け、神は自らの力を示した、そのように理解しました。その理解は言葉として旧約聖書に記され、その奇跡を意味付けしています。イエスが十字架で死んだことも、弟子たちにとって当初は当惑する出来事でしかありませんでした。しかし、それが復活のキリストや旧約聖書を通して、人間の救いに深くかかわることを見出し、言葉として告白(意味付け)してきたのです。単に出来事を見ただけでは、あるいはそれを見聞きしただけでは、その出来事の意味は分かりません。ですが、言葉はその意味付けする力を持ちます。
真実となる言葉
出来事の意味付けから始まった言葉は、教会において教えとなっていきました。人が救われることの意味を言葉にして伝え、その内容に従って生きていくように人々を招きます。これは、何か絵を見せたり、音楽で音にしたりするだけでは十分には伝わりません。やはり言葉が必要です。教え(難しい言葉では神学と言います)は教会やキリスト者のあるべき姿を言葉にしたに過ぎませんが、教えがなければ教会は成り立たちません。教えがなければ、神の民は意味を失います。
キリスト教会は言葉を大切にしてきました。神は言葉によって自己を啓示したからであり、言葉として教えを伝えてきたからです。しかし、その言葉が真実となる努力を教会は怠ってはなりません。言葉は語りっぱなしでは真実を失い、その教えは説得力を喪失していきます。ここで宣教の言葉は業と結びついていくのです。どれほど教会やキリスト者が自ら信じ語る言葉に向き合っているのか、どのようにその言葉に忠実に生きようとするのか、言葉が生きるか死ぬかがここに懸ります。「神を大切にし、隣人を大切にする」ことがイエスの言葉であるならば、そして私たちがイエスに従おうとするならば、その言葉に信頼して、そのように生きるように神は私たちを励まします。言葉は事柄・出来事(ヘブライ語のダーバルはいずれの意味も持ちます)から生まれますが、事柄・出来事へと帰っていきます。そのことで言葉は真実となります。