詩篇 25:1ー22
礼拝メッセージ 2023.6.4 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神に心を向けて祈りましょう(1〜3節)
詩篇というものは、基本的に神への祈りと賛美による歌なのですが、この詩篇は、その祈り方を教える目的で記されたものではないかと思います。この詩篇はまさに「祈りのABC」になっていて、アクロスティックという形式で綴られています。原則として各節の最初の文字がヘブライ語のアルファベットの順に並べられています。ちなみに、ヘブライ語の聖書では、各節の最初にそれが書かれています(同様な形式は、9〜10篇、34篇、37篇、111篇、112篇、119篇、145篇です)。 こういうことをしている理由は、暗唱しやすくするためだったのではないかと思います。読者や会衆は、この詩篇を暗唱して、神にどのように祈れば良いのかを学んだのです。その祈り方を知ることによって、主とともに歩む具体的な信仰生活を学ぶことができたのです。
この歌は1節で「わがたましいは仰ぎ求めます」と始まりますが、この「仰ぎ求めます」は直訳すると「(上に)上げる」となっています。主に対して「たましいを上げる」というのは、神と顔と顔とを合わせて話すように、ひたすら心を集中して、礼拝して祈るという意味です。2節にあるように、それは神への信仰、心からの信頼がその基盤となっています。ピーター・クレイギーという旧約学者は、聖書が語る「信頼」についてこう言っています。信頼というものは、素朴で見当違いの自信ではなく、契約においての神の啓示と歴史的な経験、それは個人と共同体の両方の経験を含みますが、その神の啓示と歴史的な信仰経験に対する人間の応答であるとしています。だからこそ、その神への信頼は、神が実際に御業をなしてくださるまでは、どうしても不安と混じり合ってしまいます。それで、「どうか私が恥を見ないように」(2節)という祈りになるのです。もし神が応答してくださらなければ、詩人は恥をかかされ、敵は彼の苦しみを見て喜ぶことになってしまいます。それは自分に対する敵からの非難や中傷を恐れているというよりも、神がおられることと人間生活にとって神が常に必要であり重要であることの意味合いが薄れてしまわないか、そういう信仰と肉の心のせめぎ合い、真剣勝負というものが、祈りの中にはあるということです。
2,神に「主の道」を聞き、教えを願いましょう(4〜12節)
この詩篇の重要なキーワードは、「道」です。4節「あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください」。8節「罪人に道をお教えになります」。9節「貧しい者にご自分の道をお教えになります」。10節「主の道はみな恵みとまことです」。12節「主はその人に選ぶべき道をお教えになる」。そして「道」ということばに組み合わされて、「教えてください」(4、5節)、「導いてください」(5節)、「知らせてください」(4節)と詩人の願いが記されています。現代の私たちは「道」を求めています。誰も未来を予測することのできない混沌とした世界に住んでいます。いったいどの方向に進むべきなのか、何を選択すれば良いのか、誰も教えてくれません。正しい道を歩めているのか、道に迷っているのかわからず、不安で苦しんでいます。
「人生の道の半ばで、正道を踏みはずした私が、目をさました時は暗い森の中にいた。」と始まるダンテ『神曲(地獄篇)』(平川祐弘訳)がよく表現しているように、この世界の私たちの誰もが正道を踏みはずして暗い森をさまよっているかのように歩んでいます。この詩篇25篇は、だからその歩むべき「道」、「主の道」に進んで行けるように、導いていただけるように、神に向かって祈り求めなさい、と教えているのです。
3,神に悔い改めて、赦しを受けましょう(7〜22節)
この詩篇の祈りでは、罪を悔い改め、主の赦しを求めることばが述べられています。たとえば「私の咎をお赦しください。それは大きいのです」(11節)、「私のすべての罪を赦してください」(18節)とあるとおりです。そのように、祈りには、罪の告白と悔い改め、そして赦しを受け取ることが必要であることが教えられています。
7節を見ましょう。「私の若いころの罪や背きを、思い起こさないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください」。この「思い起こさないでください」と「覚えていてください」は、日本語ではことばの重複を避けたのでしょうか、「思い起こす」と「覚える」とに分けていますが、ヘブライ語では同じ語「ザーハル」(思い出す、覚える)です。だから、ここは「罪や背きは思い出さないでください」と求め、同時に「だけど私のことは思い出してください」と祈っているのです。一見すると、都合の良い、自分勝手な祈りに見えるかもしれません。けれどもそれで良いのです。なぜなら、罪の赦しの力と根拠は、神ご自身にあり、私たちの中にはないことを認めているからです。
ですから大切なことは、自分の罪を認めること、そして神に赦しを求めることなのです。そしてその上で、神のいつくしみのゆえに、赦されていることを確信することです。信仰を持ったばかりの青年のときに、一人の牧師が繰り返し教えてくれたことは、罪を認めるということでした。そしてそのとき必ず引用されたみことばは、ヨハネの手紙第一1章8節と9節でした。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」。イザヤ書にはこう書いています。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)。
4,主の教えを喜びとして生きる道
最後に、この詩篇25篇は、詩篇1篇を補うものであると言われています。最初と最後の節を読みましょう。「幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。…まことに、正しい者の道は主が知っておられ、悪しき者の道は滅び去る。」(詩篇1:1、6)。
悪しき者の道と正しい者の道、二つの道があります。どちらを行くのか、そしていかにして正しい者の道を行けば良いのか、それがこの詩篇25篇に説明されているのです。25篇が示すように、正しい者の道を進んで行くことは容易なことではありません。悪しき者、敵、裏切り者たちに囲まれ、自分の弱さもある現実の世界で、どう生きるのか。この詩篇が示すことは、ひたすら自分のたましいを主に向けて祈り、礼拝し、教えを願い、罪を悔い改めて、三歩前進二歩後退を繰り返しながら、少しずつ進んで行くことです。そしてこの詩篇が22節で「神よ、イスラエルよ、」(22節)と言うように、それは自分ひとりで孤独のうちに歩んでいるということではなく、主を頭とした信仰の一族、教会、仲間、共同体としての行軍であることを忘れてはならないのです。