「富める者への神の審判」

ヤコブの手紙 5:1-6

礼拝メッセージ 2022.6.5 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.地上に富を蓄えることに執着してはならない

 ヤコブは金持ちについて、とても厳しい口調で断罪しています。ここで責められているのは、富そのものではなく、金持ちたちが富の誘惑に陥っていることです。新約聖書で富そのものが罪であると言及されている箇所は見当たりませんが、富める者に対する警告は数多く見られます。富には、誤った安心感と、権力への執着心がつきまとうのです。自分が相対的に金持ちでないからといって、富に対する誘惑に陥っていないとは言えません。私たちも、財産そのものが罪ではないからといって自分を正当化するのではなく、自分の心を見つめ直す必要があるでしょう。
 それでは、なぜ富に執着することが厳しく警告されているのかというと、そこには神を神として認めない人間の傲慢さがあるからです。富への執着心の強さは、私たち人間と神様との関係を十分に理解していないことの表れでもあります。自分たちが天地の創造主であられる神様に生かされている存在であることを認め、人に与えられている生涯のはかなさを理解しているならば、地上に富を蓄えて安心を得ることがいかに虚しいことであるのかを悟るはずです。
 ここで言われている「富」とは、あらゆる財産の総称であり、当時は金銀をはじめ、穀物や着物なども富の代表的なものでした。持っている富を貧しい人に分け与えることをせず、それらが腐ったり、虫に食われたりしているならば、それほどに無価値な行動はありません。


2.「終わりの日」を生きている者として

 現代で言う富とは、ほとんどがお金(あるいはお金に代わるもの)を言います。それゆえに、当時とは異なり、お金は腐ることがないので無駄な蓄えになることはないと言えるかもしれません。たしかに、お金であれば腐ることはなく、自分の死後、人に相続することもできます。しかし、3節の金銀への言及にも注目したいと思います。「金銀はさびています」とありますが、金銀はとても錆びにくい性質を持っています。しかし、錆びさせてしまったり、変色させてしまったりすることもあるでしょう。ここでヤコブが言いたいのは、金銀であれ、現代における財産であれ、この世においては恒久的価値を持つと思われるものでさえも、いつかは必ず色あせるということではないでしょうか。
 「終わりの日(3節)」は、新約聖書において最後の審判の日を指すとともに、主が再臨されるまでの時期を全般的に、このように呼んでいます。つまり、私たちは「終わりの日」を生きていると理解できます。そして、金銭を人生の拠り所とするならば、悲惨な結末が訪れます。ですから、私たちは財産を使うにしても、蓄えるにしても、それが「何のため」であるのかをよく吟味する必要があります。そして、神様に知恵をいただきながら、みこころにかなった判断を下していきたいものです。


3.富の誘惑に陥ってはならない

 富そのものが罪ではないからと言って、私たちは富を得ることに伴う誘惑を甘く見てはなりません。旧約聖書を見ると、富は神様からの祝福のかたちのひとつとして描かれています。ですから、富を得ていること自体に罪悪感を抱く必要はありません。ですが、私たちがその富を適切に扱えると自負してしまわないように注意する必要があります。イエス様が言われるには、金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しいからです(マタイ19章24節)。

 ヤコブは、富に執着心のある金持ちの貪欲さは、様々な形で表れていると言っています。それは第一に、労働者への未払い賃金があることです(4節)。これは、旧約聖書で神様がイスラエルに与えられた律法においても厳しく禁じられていることです。「貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地の、あなたの町囲みの中にいる桐生者でも虐げてはならない。その人の賃金はその日のうちに、日没前に支払わなければならない。彼は困窮し、それを当てにしているのだから(申命記24章14・15節)」。正当に賃金を支払わずに、自分の富のために懐に蓄えているとは、あってはならないことです。そのような蓄えは無価値であるどころか、不正によって貧しい人たちに飢えという危害を加えていることになります。
 また、富を地上でのぜいたくな暮らしや快楽のために用いることについても指摘されています(5節)。「快楽にふけり」は、Ⅰテモテ5章6節では「自堕落な生活」と訳されています。「屠られる日のために…」とは、殺される日が目前に迫っている動物がなお食べて太っていくように、神の審判の日が近づいていることに無関心で、罪を重ねていく様を表現しています。神のさばきの日には、動物が屠殺されるように、神に敵対する者が滅ぼされるのです。
 そして、富の誘惑に陥っている人は、不正義によって人を殺しさえすることについて言及されています(6節)。「正しい人…」とありますが、これは貧しい人への圧迫や迫害によるものでしょう。キリストの十字架についての表現と似ていますが、そこまで限定した意味ではないと考えられます。

 私たちは与えられている富をどのように考え、用いているでしょうか。貯蓄が心の平安を左右しているでしょうか。必要としている人に、富が行き届いているでしょうか。財産が心の拠り所となっていたり、あるいは財産に無頓着で思うままに自分のために使い続けたりしているならば、自分と神様との関係を省みる必要があるかもしれません。
 私たちは神様に生かされている者として、神様への信頼と感謝のゆえに、与えられている財産を、知恵をもって用いていきたいと思います。