「宮をきよめるイエス」

マルコの福音書 11:15ー19

礼拝メッセージ 2021.8.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「宮きよめ」についての謎

 「宮きよめ」と呼ばれている今回の聖書箇所ですが、この「宮」とはエルサレム神殿のことで、ヘロデが改築し拡張したものです。15節「イエスは宮に入り」とあるのは、神殿建物を囲んでいる外庭部分に入られたということです。この宮の一番の中心は聖所と至聖所という建物ですが、その前には祭壇の場所がありました。その周りを取り囲んでいるのが「イスラエルの男子の庭」であり、その外にイスラエルの女性が入れる「婦人の庭」がありました。そしてさらにその外側に広い「異邦人の庭」がありました。聖書辞典によると、この「異邦人の庭」を含むエルサレム神殿は、南北500メートル、東西約300メートルで南側がやや狭い台形のような敷地で、14ヘクタール(東京ドーム約3個分)の面積があったそうです。イエスと弟子たち一行が入られたこの異邦人の庭は、宮の全体の約3分の2を占めていたと言いますから、相当広い場所であったことになります。
 この神殿粛清とも言われる「宮きよめ」の出来事についてですが、いくつかの疑問が浮かびます。一つは、こんなに広い場所でイエスおひとりが騒ぎを起こされても、福音書が描くようには大々的な事件とはならなかったのではないかということです。また、宮の北側にはアントニオの塔があって、そこにローマ軍が駐屯していたので、騒動が起こってもすぐに駆けつけて鎮圧されたはずであるという人もいます。これについては、ここでの出来事が超自然的な奇跡ではなかったにせよ、イエスの行動は誰も妨げることができず、何も言わせないような他を圧倒する権威をもっての御業であったと考えられることです。この時のイエスは、神のさばきを執行するが如くに、広範囲に迅速に動かれ、力強く大胆に行動されました。それは荒々しい神の御怒りを大勢の人々に示していました。
 二つ目の疑問は、両替人や鳩を売る者たちを妨害し、宮を通る運搬人たちを遮ったことです。エルサレムに巡礼に来た人々は、神殿への納入金をまず両替する必要がありました。彼らが日常使用していたローマの貨幣ではなく、古代ヘブライ貨幣かティルスの貨幣に代えて捧げる必要があったのです。それでいくらかの手数料を払って両替をしていたのです。また、「鳩を売る者たち」がいましたが、鳩は貧しい人々であっても捧げやすい供え物でした。礼拝者は本来、家から犠牲とする動物を連れて来なければなりませんが、長い距離を徒歩で移動する旅で動物を生きたまま連れて来るというのはかなりたいへんなことでしたから、異邦人の庭で売られている鳩を買ってそれを捧げたのです。神殿側としては、商人たちが売上のいくらかを献上することを条件に営業許可を与えていたと思います。神殿には多くの富が集まっていましたが、建設費や維持管理費、人件費などの必要もありました。また他方、巡礼者たちもこのようなかたちで納入金や供え物を便利に手に入れられるサービスによって、スムーズにエルサレムに出かけられたのです。おそらくこれらのシステム化されていることが禁じられるなら、民の多くは神殿に出かけて礼拝することはできなくなったかもしれませんし、神殿に人々が来なければ、神殿の維持管理ができなくなったでしょう。では、イエスはどういう意図でこのように行動されたのでしょうか。まず考えられることは、純粋な信仰の場であるはずの神殿で、物の売り買いや取り引きが日常化していることに対する主の警告とさばきという視点が確かにあったでしょう。神が礼拝される場にあって、いつの間にかお金や利潤を生むことがその活動目的となっていました。信仰が商業主義化していくことは、いつの時代でも警戒すべきことです。


2,迫り来るさばきを予示し、改革を促すイエス

 しかし、イエスの取られた行動には、さらに大きなメッセージが含まれていました。それは、神殿が象徴しているユダヤの民に対して、神のさばきが迫り、このような神殿礼拝社会は終焉を迎えねばならないことを示されたのです。ここでイエスは言わば宗教改革者のように振る舞っておられます。エルサレム神殿は当時のイスラエルの人々にとって、国全体の中心であり、精神的支柱のような存在でした。17節でイエスはそれを彼らが「強盗の巣」にしたと言われましたが、これは神殿内で商売していたことだけを指摘することばではありません。それは政治犯や革命家を含むことばでした。武力を持ってローマに抵抗しようとしたナショナリストたちが一致団結を呼びかけるための政治的根拠あるいは象徴の役割を果たしていたのがこの神殿でした。しかしイエスがオリーブ山講話で語られたように、この「宮きよめ」から約四十年後には神殿は跡形もなく破壊されてしまうことになり、エルサレムは滅亡してしまうのです。このような神のさばきの予感が、この「宮きよめ」に示されていることでした。
 神のさばきが迫っていることを知っておられたイエスが、当時のイスラエルに対して改革を訴えられた内容が、17節のことばです。『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』。これはイザヤ書56章7節のことばで、このみことばから神殿とは本来どのようなものであるべきかを示されました。神殿とは建物や場所の問題ではなく、神の前における民のあり方、国の信仰姿勢を表しています。私たちの住む国が、そのようになっていくことを祈りつつ、まず私たちの教会、そして私たちの家庭、私たち一人ひとりに向けられたメッセージとして心に留めましょう。
 第一に、神殿は「わたしの家」、つまり「神の家」と呼ばれています。神殿は、生ける真の神が臨在されるところであり、その全体を所有しておられるのは神ご自身です。ですから、神を心から恐れて敬い、愛をもって礼拝することが一番重要なことです。人間の自己都合だけを優先して形式的に営まれる当時の祭儀システムは、霊的指導者たちも礼拝者たちも、生ける神のご存在を忘れ、彼らが持つべき純粋な信仰を置き去りにしていることをイエスは教えられたのです。
 第二に、神殿はイスラエルのためだけにあるのではなく、「あらゆる民」に向けて存在し、開かれているものであるべきでした。当時の神殿が暴力革命を唱える国粋主義者たちの思想的拠り所となったのはまさにその逆のあり方でした。むしろ神殿は、世界のすべての人々の主であられる神が彼らを招いて導き、出会われ、語られ、癒やされ、真の人間回復を与えられるところでした。「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます」(ヨハネ4:21)とイエスは言われ、さらに「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」(同4:23)と言われました。
 第三に、神殿は「祈りの家」です。祈りとは神との霊的な交わりです。聖書日課では現在ともに詩篇を読んでいますが、詩篇には病気で苦しむ人の祈りがあり、人間関係に悩む心の声があり、社会を嘆く歌もあります。しかし大切なことであると思うのは、詩篇を記した人たちがそういう悩みや呻きをただ不平や文句をつぶやいていたのではなく、それらすべてを神の前に持って行き、その思いをぶつけたということです。そもそもイスラエルという名前は族長ヤコブが主の使いと夜通し格闘して付けられたものでした。それは「神と戦う」という意味です(創世記32:28)。真剣に神に向かい合わず、格闘しないならば、それはイスラエルではありません。祈りのなくなった神殿は、もはや神殿ではないのです。教会は神との交わりの場として祈りの家であり、私たち一人ひとりも聖霊の宮として、神に祈り続けるように導かれています。祈りの家としての回復が、この社会に、教会に、個人に、求められている正しい改革なのです。