ヨハネの福音書 5:1-18
礼拝メッセージ 2024.10.20 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
ベテスダの池にて
再び物語はユダヤになります。ベテスダと呼ばれる池の周りでは、多くの病人たちが癒される機会を待っていました。そこでイエスは、38年間も病に苦しんでいる人に出会います。「良くなりたいか」というイエスの問いに、この病気の人は自分の悲惨な状況を語るばかりです。そこでイエスはこの人を癒します。この癒された人は床をたたんで歩き出したのです。
安息日をめぐる騒ぎ
しかしこの癒しが行われた日は安息日で、ユダヤの教えではこの日には仕事が禁じられていました。床を取り上げたことがこの教えに触れたのです。ユダヤ人はこの癒された人を責めますが、次に癒しを行った人物(イエス)を探し求めます。
コラム【安息日】
旧約聖書に、イスラエルの人々は週の最後の日には仕事を離れなければならないと記されています。この規定の目的は、奴隷などが労働から解放される日であり、人間性を取り戻すことのできる日です。
「罪を犯してなりません」
イエスは再び癒された人と会います。その時に「罪を犯すな」と命じています。罪があるから病になるという考え方はイエスになじみません(参照:ヨハネ9章)。ここでの「罪」は、律法(教え)を守れないから病になるという考え方、あるいは病人は神の祝福を失っているという考え方自体を指していると言えましょう。つまり、この癒された人がそのような考え方に自らを置いて希望を失ったり、神の祝福を失っていると考えたりしないように諭したとすることができます。
安息日の意味
そもそも安息日とは、奴隷など働く者が休息を得るために仕事から離れて良い日であり、人間性を回復する時です。だから、旧約聖書の安息日規定には、自分が休むことだけが命じられているのではなく、自分が労働力として使っている奴隷などを休ませなさいと語られているのです。私だけが仕事を離れることができれば良いのではありません。しかしこの規定は、徐々に休まなければならない、そうでなければ律法違反になり、神の祝福を失うとされ、休まない(休めない)人々は周りから差別を受けても仕方ないとされるようになりました。安息日の目的(人間性の回復・経済的利益の再分配)が忘れられ、神が定めたという理由のみが残り、文字だけが残ってしまいました。人を助け救うという目的・理由が忘れられた規則・律法はそれ自体が目的化して、規定の文字を守ることが最も優先されることになったのです。安息日の本来の目的からすると、その日は人々が厳しい労働から離れることができるように(特に、その日暮らしの安息を守れない人々が安息できるように)、人々が互いに支援し合うことが求められます。だから、実際に人々が何らかの救いを経験することは何ら問題ではないのです。イエスは安息に行われるべきことを行ったに過ぎません。教えは守るためにあるのではなく、人を救うために教えがあります。この順序は決して逆ではないのです。
神は人を救うことにご自分の働きの本質を置いています。裁いたり、罰したりすることが目的ではないのです。しかし、人間は自分を守るために、神の名によって他者を裁きます。このユダヤ人たちの思いは私たちと無関係ではないでしょう。私を中心にした「神の正しさ」、「聖書の正しさ」の中で、現実に苦しんでいる人間や救いという最も重要なポイントが私たちも見えなくしてしまいます。神がイエスを通して実現しようとされたこと、つまり現実に苦しむ人々への救いこそが真理であり、生きている人々を見ることで「父である神が今も働く」という言葉が真実になるのです。