マルコの福音書 10:13ー16
礼拝メッセージ 2021.6.27 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,憤られたイエス
14節に「イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた」とありますが、イエスが憤られたという箇所は福音書全体の中を見てもここだけです。もちろん、宮きよめなど主がお怒りになられたことを示す箇所は他にもありますが、「憤る」ということばが使われたのは実はここだけです。しかもこの箇所の並行記事とされるマタイの福音書19章13〜15節、ルカの福音書18章15〜17節にも、イエスが憤ったとは書かれていません。それだけにマルコの福音書のこの箇所を読み解く上で、イエスがここで憤られたことについては注意を払う必要があると思います。この福音書は伝承では使徒ペテロからマルコがイエスの福音について聞いたことを記していると言われていたり、マルコ本人も十二弟子ではありませんでしたが、イエスの地上生涯にいくらか同伴したことのある人であっただけに、ここで「憤った」と書いたのは、それほどこの出来事が印象深く彼らの記憶の中にあったことだったのではないかと想像できます。
弟子たちはイエスが柔和で優しい愛情深いお方であったことをよく知っていたと思います。そんなお方が激しく怒られた、憤って彼らをきつくお叱りになったのですから、忘れられない記憶となったことでしょう。しかも何か罪を犯したとか、怒られても仕方のないような行動をとったためにイエスが怒りを燃やされたのでしたら、彼らも驚かなかったでしょうが、自分たちのしたことのいったいどこが悪かったのか、それがわからなかったため、たいへん動揺したのではないでしょうか。
2,イエスの憤りの意味
高い評判が立っていたイエスという偉い先生が来ていることを知った土地の人たちが、どこまでイエスのことについて知っていたのかは不明ですが、当時のユダヤ人の慣習でとにかく自分の子どものために手を置いて祈って欲しいという願いを持ってやって来たのです。弟子たちからすれば、これからエルサレムへ向かわれようとする重要な時期におられるイエスをそんなことで煩わせてはいけないと、彼らなりの配慮でその御心を確かめもせずに、子どもたちが近づくことを遮ったのだと思います。しかしイエスは彼らのその行動に憤りを覚えられたのでした。弟子たちはイエス様のことを思ってしたことであるのに、なぜ怒られなければならないのか、どうして憤られたのか、まったく意味がわからなかったと思います。それでは、イエスの憤られた理由はどこにあったのでしょうか。
今日の箇所のところの文脈を振り返ると、10章はこの前の箇所で妻を離縁することは律法にかなうことなのかどうかというパリサイ人たちの質問にイエスが答えられたところでした。当時の夫婦関係において女性の置かれている立場がたいへん弱いものであったことを示す内容です。そして今日の箇所の次に記されているのは、多くの富を持つ者がイエスに質問する話です。富める青年のうちには貧困の中にいる大勢の弱い人々のことは考えたこともなかったでしょうから、イエスが「貧しい人たちに与えなさい」と言われたことに大きな衝撃を受けて立ち去りました。そしてそれに挟まれるようにして今日の箇所があるのです。ここで退けられようとしたのは子どもたちでした。当時、弱い立場にあった人たちの代表がこの10章の中で示されている、女性、子ども、貧しい人々でした。10章を最初から読んで気づくことは、このような弱者である人々のことについて彼らは何とも思わず、自分の願望だけを主張して、高慢な気持ちを持ったまま、イエスの前に立って物を言ったのでした。主は彼らの愚かさやその間違った考えを悲しんでおられたと思います。ですから弟子たちに向かってイエスが憤られたのは、彼らもパリサイ人たちの心と何も変わりがないではないかという残念な思いがあったと思います。
3,神の国に属する生き方
この福音書の中心主題とされるみことばがこの10章に出て来ます。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(10:45)。「仕えられるためではなく、仕えるために」というイエスの生き方を弟子たちは学ばなくてはならないのです。子どもだから、女性だから、貧しい者だから、無視して良いとするこの世の視点や価値観でなぜあなたがたは生きるのか、主の前に人々の前にへりくだって生きよ、それが神の国に属する者のあり方だと、イエスは弟子たちに教え戒められたのです。
14節と15節で繰り返しイエスは「神の国」と言われました。15節では「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」と言われます。この「子どものように」とは、子どもが大人に比べて純真であるとか、何の汚れもないということではありません。子どもでも大人と同じように悪い考えを抱いたり、罪を犯します。大切な点は「子どものように神の国を受け入れる者」というところであると思います。子ども時代は神の国を受け入れることにおいて、比較的に大人よりも柔軟です。もちろん大人になってから神の国を受け入れる人も大勢います。しかし年齢はどうあれ、その心においては神の前にへりくだり、子どものように裸の心になって神の懐に飛び込む必要があるのです。
この箇所の結びは16節です。「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された」と書いています。イエスは子どもたちを愛されました。大人たちから邪魔者扱いされていた彼らをイエスは喜んで迎え、受け入れられました。この16節こそは神の国がどういうものであるのかを示していると言われています。イエスの語られた神の国とは何でしょうか。神の国とは、イエスに抱かれ、その御手を置いてもらい、素晴らしい祝福を受けるところであると示されているのです。聖書の世界で、祝福を受けることはたいへん大きなことでした。祝福は一度与えられると撤回できないほど非常に重い出来事でした。この絶対的で恵み豊かな祝福にすべての人が招かれていることをイエスは福音としてお示しになられたのです。
価値なき者とこの世で見られていた人たちをイエスは抱かれ、祝福されるのです。私たちも、子どものように神の国を受け入れましょう。そして、イエスのもとに行く人々を誰も妨げず、むしろイエスのもとへ案内する者とさせていただきましょう。