ルカ福音書 1:46-55
礼拝メッセージ 2018.12.9 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
エリザベスの物語
ルカ福音書のクリスマス物語では2人の女性が登場します。1人はエリザベスという人物です。彼女は祭司ザカリヤの妻で、神の前で正しく歩んでいたとあります。同時に子どもがいなかったことも聖書は報告しています。古代において子どもがいないことは、結婚している女性にとってはその妻としての地位を危うくする致命的なことでした。子どもがいないことに周囲の目が冷たいこと、社会的にさげすまれること、当時の常識的なことであったともいえるでしょう。子どもは神からの賜物と考えられていましたから、神が子どもをその女性に与えないのは、その女性が神からの祝福を失ているとも見られていました。そのような不妊の女性と呼ばれる彼女に子どもが約束されます。彼女の喜びの声「主は恥を取りさってくださった」は、それまでにエリザエスは背負ってきた苦しみを吐露しています。この子どもを産めないと自分も周囲も認められてきた女性が妊娠して、子どもが与えられる物語は旧約聖書にすでに語られています。アブラハムの妻サラであり、預言者サムエルの母ハンナです。このモチーフは、神の力を語っている以上に、人々から見捨てられた女性たちを神は救うことを語ります。男性と比較して弱い立場に追いやられた女性たちに目を留めて彼女たちを救うのは神であるとの聖書の主張がそこに見いだされます。
マリアの物語
クリスマス物語の2人めの女性はマリアです。そのマリアに天使ガブリエルが現れます。彼女はヨセフと婚約していましたが、聖霊(神の力)によって身ごもったことが告げられます。彼女は男性を知らないのにそのようなことが起きました。そこでマリアは親戚のエリザベツのところに行きます。マリアには2つの驚きがあったと思われます。彼女は身に覚えがないのに身ごもったことはもちろんですが、当時の地中海社会では男性経験のない女性が身ごもることがあったとしても、それは(身分社会において)高貴な女性に起きることとして考えられていたようです。つまり、身分の低い自分にそのようなことが起きるはずはないと、そのような驚きもあったはずです。
イエスの母マリアについて福音書と使徒の働きが記しています。その描き方として、①イエスの家族としてのマリア ②イエスの弟子としてのマリア ③イエスのゆえに受難するマリア ④イエスについて宣教するマリア を見ることができます。ルカ福音書1章では、宣教者としてのマリアの姿が描かれ、聖書の中でのマリア像としては最も重要です。
マリアはエリザベツの祝福の言葉を受けて、「マリアの賛歌」と呼ばれる詩を謳いあげます。この賛歌は前半部と後半部とに分けることができます。前半部はマリア個人についての賛歌で、後半は社会全体への神の意思の実現を謳いあげています。よく読んでいくとかなり強烈な内容になっています。神から選ばれた者を宿している女性への祝福が謳われます。これは、神が女性を祝福するという、当時としては大変な考え含んでいます。また、権力がある者は引きずりおろされ、身分の低い者が上げられます。飢えている者は満たされますが、富んでいる者は何も持たずに追い出されます。これは、権力を持たなかった、あるいは富んでいるとは記されながらもその実は社会的には苦しい立場に置かれていたアブラハムに約束された内容です。この約束はエジプトからのイスラエルの解放、シナイ契約の形で実現されました(あるいはそこでそのような理想が語られたのでした)。決してマリアから始まった、あるいはイエスから始まった神の言葉ではありません。旧約時代にすでに約束され、その理想のために神が働いたことを継承していたのです。
神の祝福
古代イスラエルの初期の時代には女性の預言者が存在していました。初代教会には女性の役割が重視されていたことが示唆されています。もしかしたら女性の宣教者もいたかも知れません。しかし古代イスラエルの歴史が進む中で、女性の預言者につての記録は残されていません。また、ヨーロッパの教会での女性の地位や働きはどんどん狭いものになっていきました。そのような中にあって、神は女性を祝福しようとしたばかりか、イエスの働きの内容を語るために宣教する者として用いようともしています。
クリスマスの物語を2人の女性から見てみました。クリスマスはイエスの誕生物語ですが、それは出来事の説明だけでなく、イエスの言葉と働きを指し示す内容として語られています。それはマタイ福音書であれば受難の人々(難民)の視点から語ることができるかも知れません。ルカ福音書であれば、羊飼いの立場から捉えなおすことができるでしょう。クリスマスにあって、イエスの言葉とその働きをもう一度、覚えたく思います。