コロサイ人への手紙 1:24ー29
礼拝メッセージ 2019.4.21 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,復活のキリストの力で生きる
イースターを日々生きる
イースターとは、今から、約2000年前、イエス・キリストが私たち、全人類の罪のために十字架に架かられ、三日目によみがえられたことを記念する日です。イースターは、年に一度ですが、実は、教会が日曜日に礼拝する理由も、キリストが日曜日(聖書のことばでは「週の初めの日」)によみがえられたからです。ですから、イースターは一年に一回のことですが、毎日曜日も七日に一度のイースターと言っても良いと思います。しかし、今日の聖書箇所を読むと、年に一回、週に一回どころではなく、毎日がイースターのように、毎時毎秒ごとにキリストの復活を深く心に留めて、生涯を送った人の証しのことばが書かれています。それはパウロです。
苦しんでいるのに喜んで生きる
24〜29節を読むと、喜びにあふれ、生き生きとしているパウロという人の思いが伝わってきます。24節で「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」と書いています。原文では、冒頭から「今、私は喜んでいます」となっています。でも、その喜びはどんな喜びであるかと言うと、苦しみを受けていることを喜んでいると記されています。楽しいことや嬉しいことがあるから喜んでいるのではないのです。あるいは、最後の29節では、「私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」となっていて、日々苦労を重ねているのですが、それで疲れ果てるのではなく、むしろ元気で、非常な活力に満たされて頑張れているということが証しされています。ふつうは、苦しみの中にあっては、喜ぶどころか悲しみ嘆き、落ち込むだけで、ある程度はやせ我慢して努められたとしても、喜びに満たされて、持続的に奮闘することなんかできないはずです。彼は、苦境を克服するばかりか、交通手段の限られた時代に地中海世界を飛び回り、多くの地域や教会へ行って宣教の働きをし、たくさんの偉大な信仰の手紙を書きました。時には訴えられ、脅され、牢にも数回入れられました。しかし、彼は少しもへこたれずに主に忠実に仕え続けました。伝承によれば、彼は鷲鼻で禿げており、小柄な人物だったようですが、その小さいからだのどこに、底知れぬエネルギーがあったのでしょうか。パウロの記したことばをよく読んでいきましょう。
キリストの苦しみと自分の苦しみ
なぜ苦しみさえも喜べたのかを、パウロは24節でこう言っています。「私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」。この文章はどう解釈すればよいのか、とても難しいところと言われています。それは、何かキリストの十字架の苦しみが十分なものではなかったかのように見えるからです。しかも、それを人間パウロがその苦しみの部分を満たしているというのはいったいどういうことなのでしょう。いろいろな解釈がありますが、私の理解では、ここはパウロがキリストの十字架の苦難を自らの歩みに密着させて捉えていたということだと考えています。キリストは私たちを愛し、罪の赦しを与えるために、十字架に架かられて、苦しみを受けてくださいました。キリストを信じる者は、キリストに結び合わされ、罪に死んで、神のいのちによみがえらされるのです。このようにキリストと結合しているゆえに、現在の私たちの苦しみ、困難、迫害の経験は、キリストの苦しみに繋がり、その受苦にあずかっていることになります。そのキリストとの結合は、十字架という苦しみのことだけではありません。復活についても私たちは、その御力にあずかることができます。27節「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」とあり、29節では「私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって」と記されています。キリストの十字架を通して、自らの苦難に向き合うことができ、その復活を通して、生きていく力、奉仕のエネルギーとすることができるのです。
2,キリストの中に生き、教会の中で生きる
キリストの中に生きる
私はパウロのここでの告白、「あなたがたの中におられるキリスト」や「自分のうちに力強く働くキリストの力」ということは、もう一方の方向から言えば、「私はキリストの中に生きている」と言い変えることができると思います。パウロが手紙の中でよく記している「キリストにある」(in Christ)ということです。24節をよく見れば、そのように「キリストの中にある」ということは、キリストのからだである「教会の中にある」ということと繋がっていることが明らかにされています。そこで、イースターの日にあたって、この聖書箇所が示している大切な点について心からお勧めすべきことは、「キリストの中に生きる」ということです。あなたのために十字架に架かられ復活されたキリストを心で信じ、受け入れ、このお方と苦楽をともにするようにして、これからの人生を歩んでいただきたいということです。どうか、あなたの罪のために十字架に架かられ苦しまれたお方、そしてよみがえられたキリストを、あなたの心に迎え入れてください。
教会の中で生きる
第二にお勧めしたいことは、「教会の中で生きる」ことです。キリストは教会のかしら(head)です(1:18)。キリストは教会を建て上げられ、ここにキリストは満ち満ちておられます。私は、教会というものが理想的な集まりやグループであると言っているのではありません。教会は素晴らしいところでありますが、同時にいろいろな課題を持ち、時に群れとして弱ることも、失敗してしまうことだってあります。しかし、教会というキリストにある人々を召し出した人々の集まりを、神は真理の柱、土台として、この世界の中に堅く建てられました。教会は、キリストの十字架と復活とによって救われ、導かれた人々、25節にあるように、キリストに「仕える者」の集合体です。教会が、この世と大きく異なっているのは、キリストに結び合わされた人たちの集まりという点と、皆がキリストに仕える奉仕者であるというところです。神の造られた世界で、ただ消費し、ツカウヒト(使う人)では真の喜びは得られません。むしろ、神にツカエルヒト(仕える人)として、キリストの復活の力を経験し、歩もうではありませんか。