「四千人に食物を与えるイエスの権威」

マルコの福音書 8:1ー10

礼拝メッセージ 2021.3.21 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,二つの食物供給の奇跡

 今日の8章のこの話は、前に読んだことがあるとお気づきになられていると思います。それは6章32〜44節で、男だけで五千人の群衆にイエスは五つのパンと二匹の魚を祝福して分け与え、超自然的な御業でそれを増やし彼らのお腹を満たされました。そして8章において四千人に食物を与えられたことが同じように記録されています。このように類似した内容の記事があることについては、大きく分けると二つの捉え方がされています。ある人たちはこの箇所に書かれている事柄は6章の奇跡の話と全く同じものであり、その伝承過程で起こった重複した記事として理解しています。また他の人たちはこれらはそれぞれ異なった出来事であったと考えています。まず、これを重複した記事であるとの見方ですが、それには全く同意できません。というのも、この二つの内容は人数など様々な相違が存在しますし、8章19〜20節のことばを読むと異なった二つの出来事であったことがイエスのお口から改めて語られているからです。次に、別々の出来事であるとの見解の中には、6章のことはおもにユダヤの人々を対象としたものだったのに対し、8章は異邦人に対する奇跡であったと説明する方もいます。同じガリラヤ湖周辺であっても、8章の場面が7章31節からの続きであるとすれば、異邦人の多く住む地域「デカポリス地方」における出来事となるからです。さらにパン切れの残りが6章で「十二のかごいっぱい」になったのはイスラエル十二部族に神の恵みが満ち溢れることを示し、8章で「七つのかご」なのはその数が完全数で異邦諸国にまでその恵みが大きく広がることを暗示していると言われています。しかし、このようにユダヤ人と異邦人という対象の違いは文章内容から明確とは言えず、その可能性は高いとしても、確かなことはわかりません。


2,人間のすべての必要に応えられるイエス  

 それではなぜ同じような奇跡が二回も繰り返されたのでしょうか。一つは、人間の肉体的あるいは具体的な必要に応じてイエスの御業が繰り返されたのではないかということです。神がお遣わしになった御子イエスは、人間の霊的な必要をよくご存知でしたが、同時に人が持つ具体的なニーズについても深い関心を持って見ておられるメシアでした。イエスは2節で「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。」とご自分のほうから弟子たちに告げられました。この「三日間」ということばや、「空腹のままで家に帰らせたら、途中で動けなくなります」(3節)の表現から、6章の時よりも緊急で必要性の高い状況であったことがわかります。それにしても三日と記された期間中、人々は何も食べることもせずに一体何をしていたのでしょう。2節の「わたしとともにいて」の表現から、おそらく彼らは寝食を忘れてイエスが語られる教えに夢中で聞き入っていたのではないでしょうか(参照;6:34)。食べることさえも疎かにしてしまうほどのみことばへの集中があったとすれば、それはすごいことであると思います。主ご自身が催された大規模な聖会に集った彼らは、たいへん恵まれた豊かな時間を過ごし、霊的に満ち足りる経験をしていたのでしょう。しかし、イエスは人々が霊的に十分に満たされているから、彼らの肉体の必要はどうでも良いとは思っておられませんでした。むしろ彼らのからだのことをとても心配して「かわいそうに」と仰ったのです。この「かわいそうに」ということばは、6章34節にもイエスの思いを示すのに使われたことばでした。「(イエスは彼らを)深くあわれみ」とありました。そのギリシア語は、人間のからだの内蔵部分を示すことばから来ており、思いやりの心でいっぱいになるという意味であり、深い同情を相手に示すことばなのです。有名な新約学者が語っていることですが、マタイとルカの二つの福音書には「主の祈り」のことばが記されていますが、マルコの福音書にはそれがありません。それでこの福音書では、四千人の給食の奇跡を通して、人間が持つ実際的必要のために祈るべきことを教えているのではないかと言います。「主の祈り」の中に「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」(マタイ6:11)とあるからです。私たち人間の成り立ちをよくご存知のお方に心から頼り、祈るようにイエスは弟子たちを励ましておられます。


3, 人間の忘却のゆえに忍耐深く応じられるイエス

 同じような奇跡が二度繰り返された理由の二つ目は、人は神の御業を経験してもすぐに忘れてしまうということがあります。奇妙に思われることですが、8章4節で「こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょう」と言った弟子たちは、6章の出来事をまるで何も経験しなかったかのようにイエスに問いかけています。このことについては、のちに8章14〜21節を読む時にその詳細を学びたいと思います。ただ、ここで予め覚えておきたいことは、私たちは主の素晴らしい御業を見聞きしたり直接経験していても、いくらかの時が経つとすぐにそのことを忘れてしまい、困難な局面で不安に陥り、信仰に立って物事を判断することができなくなるということです。五つのパンと二匹の魚(6:38)、七つのパンと少しの小魚(8:5〜7)、それが一体何の役に立つのだろうか、という不信の思いになってしまいます。不十分なリソース(資源)だけを見て、何も期待できなくなり、恐れを抱き、悲観して諦め、絶望するのです。ですから神は忍耐強く同じことを繰り返し人々に行なって、彼らの心に刻み込むように神の真理を教え続けてくださるのです。


4,満たしを与えて人々を派遣されるイエス

 この四千人の食物供給の奇跡が示しているもう一つのことを見ましょう。9節を読むとわかりますが、これが群衆を解散させる直前に行われた奇跡であったということです。人々はこれからそれぞれの家路につくはずでした。でも、彼らを空腹のままで帰らせてしまうのは危険であると主はお思いになり、この御業がなされたのでした。人々は、みことばによって霊的に力づけられ満たされ、同時にお腹もいっぱいになり、力に溢れて家に帰ることができました。主は人々を霊肉ともに満ち足らせてから、それぞれの生活の場へと送り出されたのでした。このあり方は教会の本質を表していると言って良いでしょう。ともに集って主に礼拝をささげ、いのちのパンの恵みにあずかり、その豊かな交わりの場から、それぞれ委ねられたフィールドへと遣わされていくのです。