「四人の漁師を弟子にする」

マルコの福音書 1:16-20

礼拝メッセージ 2020.7.5 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


弟子の選び

 イエスの宣教の開始とともに、イエスは弟子を選んでいます。マルコ福音書では具体的な活動(癒しや奇跡あるいは、人々との交わり)以前に弟子たちの召しの記述が記されているのです。イエスの活動には弟子たちの存在が非常に重要だったようです。同時に、マルコ福音書ではこの弟子たちの姿は、イエスを理解しない者でもあります。
 漁をしている間に、イエスはこの2人の兄弟たち(シモンとアンデレ)に呼びかけます。人間の漁師という言い方はイエスが発明した言葉ではなく、すでに古代では用いられていたようです。彼らはすぐに網を捨ててイエスに従っていきました。印象としては初対面で、唐突な呼びかけに応答したと言った感じです。イエスとこの兄弟たちが、弟子となる前にどのような関係を持っていたのかはっきりしていません。多くの人たちは、すでに知り合いであった可能性を指摘しています。 次も、やはり漁師をイエスは弟子として選んでいます。今回は兄弟(ヤコブとヨハネ)です。弟子たちのイメージとしては、非常に貧しいと言うことがあるかもしれませんが、ある弟子たちにとってはそのイメージは合わないようです。また漁師が、特別に社会的な差別を受けていたと言うこともないようです。だからと言って、弟子たちが強い力を持っていたと言うことはないでしょう。やはり弱い者として、何か求めるものがあってイエスの呼びかけに従ったのです。弟子たちの求めていたものは福音書を読み進めていく中で、具体的に明らかにされていきます。またイエスの考えとの違いも鮮明になっていくことになります。それはすでに述べた、弟子たちがイエスを理解できなったという形で現れてきます。


主の弟子となること

 イエスの弟子運動は、極端な言葉や印象に彩られています。急な呼びかけと、これまでの生活を文字通り捨てるということが記されています。他の箇所では、家族や自分をも憎まなくてはならない、そこまで記されているのです。そのような聖書の主張とは違って、キリスト教会ではイエスを信じればキリスト者としての歩みが達成されるとの考えが主流です。その一方で、信じるだけではこの地上での信仰者としての歩みは十分でないと考える人々もいます。実はメノナイト教会の運動もこの弟子運動の流れに属しています。
 イエスを救い主として信じることと、イエスの弟子となることの違いは何でしょうか?弟子となる意味は、この地上で神の価値観を実現するという使命を果たそうとすることであり、その決心です。聖書はこの地上での神の考え(正義・平和)の実現を弟子たちに命じています。神の考えは具体的には、ただイエスを信じるという告白では実現されるものではありません。イエスの述べる命令への応答が、私たちの告白として必要であり、それを実現する行為は求められます。ここで気を付けるべきは、神の考えを実現する方法は様々なことです。 遣わされる場における相応しい方法があります。またそれぞれが与えられている賜物や関心の問題もあります。教会の中だけであるいは教会のためだけに、弟子とされるのではありません。一見して教会のためには見えないような社会の様々な場面で私たちは弟子としての訓練を受け、弟子としてイエスの意志を行うのです。


弟子としての犠牲

 弟子としての意味として犠牲があります。イエスは、社会からひどい扱いを受けている人々が肉体的・精神的・信仰において人間性を回復することに第一の価値をおきました。そのための犠牲も払いました。弟子も同じような生き方をするように、そのための犠牲も覚悟するようにと私たちに迫ります。誰でも犠牲はいやなものです。失いたくはありません。失うこと自体が私たちにとって不名誉と感じます。ここで指摘しておくべき問題は、犠牲を進んでするから良いとか、嫌だからだめという事ではありません。イエスの考え方を生きるときに、それに共鳴するための犠牲の覚悟があるかどうか、そこにあります。イエスの価値観に対する私たちの思いが、第一です。イエスの考え方のために犠牲を認める生き方をボンヘッファーという神学者は「高価な恵み(犠牲の多い恵み)」と呼び、ただ信じるだけで満足することを「安価な恵み(安っぽい恵み)」と呼びました。イエスの生き方は多くの場合に、私たちの生き方とは衝突します。しかしその生き方は本当の人間回復を生みます。弟子とはこの生き方を実現しようと試みる者です。