「四つの獣」

ダニエル書 7:15-28

礼拝メッセージ 2024.11.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,ダニエルの抱いた真正な恐れ

 15節と28節を見ると、ダニエルは「悩み」、「おびえ」、「動揺し」、「顔色が変わった」と述べています。ダニエルは、神からの預言のことばを受け取り、その幻を示された時、言いようのない恐れを抱いたのでした。最初にこのことに注目しましょう。ダニエルが抱いた恐怖は、第一に真正な神への恐れでした。神への信仰が不安や恐れからの解放ということに強調が置かれるあまり、現代の私たちは神を恐れることを忘れてしまう傾向があるかもしれません。確かに、神は私たちをこの世界にいる誰よりも最も素晴らしい「友」となってくれるし、最も親しく近づいてくれる「親」や「兄弟」のようです。けれども、ダニエル書を通しても分かるように、神はどんなに大きな人間組織、国家、そして自然の力よりも偉大なお方です。すべてを支配しておられ、滅ぼすことも生かすことも意のままにできるお方であることを忘れてはなりません。ダニエルが見せられた世界の歴史支配の啓示は、栄耀栄華を極めたように見える巨大帝国の支配者でも、強大な軍事力を誇る国家組織でも、一息でひねりつぶしてしまう神の絶対的な支配力の怖さを思い知るものだったのです。
 第二に、未来を知ることの恐れがダニエルにありました。私たちは興味本位にこれからの世界がどうなるのか、理想的あるいは破滅的な未来予想図を思い描くかもしれません。しかも、現代のように先行きが見えない混沌とした中では、確かに不安のほうが大きいことでしょう。しかし、ここでダニエルは単に不安を抱いたというのではなく、その「悩み、おびえ、動揺」は「神への恐れ」に直接繋がった感情でした。
 確かに本当の未来を知ることは有限な存在であるひとりの人間にとって、たいへん大きな苦悩と動揺を与えるものに違いありません。これらの預言のことばを今日の世界情勢と合わせてみようとする試みは、これまでいろいろとなされてきました。それが正しい読み取りであるかどうかは別として、大切な点は、それが一体自分にとってどうなのかということだと思います。聖書のことばを神からの語りかけとして聞くということは、過去や未来のよその国の「他人事」として聞くのではなく、常に今ここにいる自分に差し向けられたことばとして、「自分事」として受け止めていかなくてはならないからです。
 奇妙なたとえになりますが、ダニエルがもし日本の人で日本のこれからの歴史を幻で見せられたとしたら、そしてこの聖書に日本の未来に関する直接の言及があるとしたら、どうでしょうか。想像してみてください。幻の中で日本が見えて、次々と「獣」のような支配者が、あるいは国家が、政党が、巨大企業や組織が立ち現れて、自分やその子孫が苦しめられ、その地を蹂躙されるという預言を見せられたとしたら、です。ジョージ・オーウェルが書いた『動物農場』という寓話小説があります。農場で働く動物たちは人間たちを追放し、動物の誰もが平等な社会を築こうとします。しかし、その理念はいつの間にか権力を握ったナポレオンという名の豚に都合よく歪曲されていき、独裁体制の社会に変わっていきます。また、同著者の作品『1984』は、「ビッグ・ブラザー」率いる一党独裁の全体主義国家が統治する未来世界を描いています。体制に疑問と不満を抱いていた党員ウィンストン・スミスが主人公です。この二作品は最近また注目を集め、多くの人に読まれています。今の世界や日本に対して不安を抱く人が多いからでしょう。しかし、主イエスが言われたことばをいつも思い起こしましょう。「人に惑わされないように気をつけなさい。…そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」(マタイ24:4〜6)。


2,聖徒たちの忍耐と信仰

 ダニエル書に目を向けると、ダニエルは「傍らに立っていた者たちの一人」にこれらの幻の意味を尋ねました。答えた人物は御使いで、その名はガブリエルでしょう(8:16)。そこで「四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である」(17節)と教えられます。19節以降は、特に「第四の獣」に焦点が当てられます。なぜなら「第四の獣」こそ、他の獣とは異なって、世界全土を支配する「王」であり、「国」であるからです。その中から、「小さな一本の角」(8節)が出て来て、「いと高き方」に逆らい、聖徒たちを悩まし、「時と法則」を変えようとします(25節)。
 この内容と並行的に読むべき箇所は、ヨハネの黙示録13章です。「この獣には、大言壮語して冒瀆のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。…獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。耳のある者は聞きなさい。捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。」(黙示録13:5〜10)。
 この中で「冒瀆」や「大言壮語すること」は完全に共通しています。不法の者が語る「理念(アイディアル)」はいつしか「偶像(アイドル)」となっていきます。また黙示録の「四十二か月の間」は、ダニエル書の「一時と二時と半時の間」(7:25)の「時」が「一年」とすれば、三年半となり合致します。ダニエル7章と黙示録13章から明確な話の筋が読み取れます。それは、第四の獣(一本の角)が支配して聖徒たちは敗北し、苦難の中を通るが、しかしさばきのときが来れば、その支配は終わり、いと高き方の聖徒たちが御国を受け継ぐことになる、ということです。
 この「いと高き方の聖徒たち」とは、新約聖書のパウロのことばから、広く、主に従う信仰者たちと考えて良いでしょう(Ⅱコリント6:2)。強く勧められていることは黙示録13章10節であり、「ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である」というところです。ダニエル書が言うように「獣」のような凶暴な支配者や国家が私たち神に従う聖徒たちを苦しめることが起こるでしょう。いやすでに起こっているかもしれません。けれども、ヨハネの黙示録で主は語ります。大事なことは「忍耐と信仰が必要である」と。パウロも別の箇所で言います。(私たちは)「耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる」(Ⅱテモテ2:12)と。
 1968年、東西冷戦の危機下で、トゥルナイゼンがバルトに電話をかけ、世界情勢について語り合いました(バルトの亡くなる前夜でした)。バルトは彼にこう語ったそうです。「さあ、意気消沈だけはしないでおこうよ!けっして!なぜなら治めていたもう方がおられるのだから。…全世界を、まったく上から!天から、治めていたもう方がおられる。神が統治しておられるのだよ。だから僕は恐れない。どんな暗い時にも、にもかかわらず僕たちは確信しつづけようでなないか!希望をなくさないようにしようよ。…」(宮田光雄著『カール・バルト』岩波書店)。私たちにとって今を生き、未来に進むためには「忍耐と信仰が必要」なのです。まだ終わりではありません!