「嘆きから踊りへ」

詩篇 30:1ー12

礼拝メッセージ 2023.9.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,病気が癒された人の歌

 聖書が記された時代、病気になること、それによって命が脅かされる不安はたいへん大きなものがありました。病気や体に障害を持つことは、肉体的な苦痛だけでなく、社会から閉め出されてしまう危険もあったからです。そういうことで、詩篇には、しばしば病気を負った人の切実な祈りと願いが記録されています。今日の詩篇30篇は、重病になった人が癒されて、神に感謝の思いをささげた歌であると言われています。
 2節「わが神、主よ、私が叫び求めると、あなたは私を癒してくださいました。」と語って、詩篇作者は主をたたえています。5節を見ると「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」と新改訳聖書は訳していますが、新共同訳聖書ではこうなっています。「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」。具体的な情景が浮かぶような訳文です。
 「泣きながら夜を過ごす」とは、病気になって苦しい症状が続くと、夜がとても長く感じられ、暗い中で余計に不安がつのります。早く朝がやって来ないかと、夜明けが待ち遠しくなります。詩篇は言います。神は、「喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」あるいは、「朝明には喜びの叫び」が生まれると。神が、病む人の暗く重い気分を吹き飛ばし、峠を越えたかのような安堵感を与えてくださるのです。


2,神殿奉献の歌

 そういう病苦の中から生まれたとも言える詩篇ですが、表題には、「賛歌。家をささげる歌。ダビデによる。」とあります。この詩篇作者がイスラエルの王ダビデであるなら、「家をささげる歌」とは何を意味しているのでしょうか。ヘブライ語の直訳は確かに「家」なのですが、実は、新改訳聖書を除くと、ほとんどの日本語訳聖書では、「家」と訳さず、「神殿」あるいは「宮」と訳しています。ここは、普通の「家」ではなく、神殿であり、それを奉献する時に歌われたもののようです。ダビデ自身が神殿を建てることを神はお許しになりませんでしたが、息子ソロモンが王位継承後、すぐにその建設に取りかかることができるように、彼は建設する土地や建設資材の段取りを、存命中に行っていたのです。ダビデが神殿建設の準備に入っていく晩年に起こった出来事を背景に、「家をささげる歌」として、詩篇30篇が書かれたのでしょう。それは、歴代誌第一21章、そしてサムエル記第二24章に記されています。


3,人口調査の罪

 ダビデはある時、人口調査をするように命じました。しかし、それは御心に叶わず、むしろ罪でした。それで国の代表者として犯した罪ということで、神はイスラエル全地に疫病がもたらされることを許されました。それにより、多くの人が命を失ったことを聖書は記していますが、そのとき、ダビデ自身もその病気に罹って、生死の境をさまようほどの状態になったのでしょう。しかし、憐れみをもって主は癒し、回復へと導かれました。そのときに記されたのが、この詩篇であると思います。
 そもそも人口調査を行うことがなぜ罪になるのか、どうしてそんなに重い罰を民全体が受けなければならないのか、確かに理解するのが難しいところです。この場合、ダビデの目的は、兵隊の数を確認し、軍事力をはかることでした。その動機は、軍備、権力、国防力の規模を誇るためだったようです。しかし、王国はすでに領土を拡大し、安定状態で、調査の必要はなかったのです。ダビデは、いつの間にか真に頼るべきは神ではなく、人間として所有でき、目に見えて測ることのできるもの、すなわち、軍隊の規模や国力や経済に信頼を置いて、安心感を得たということでしょう。
 詩篇30篇6節から7節は、その彼の失敗経験が綴られています。「私は平安のうちに言った。『私は決して揺るがされない』と。主よ、あなたはご恩寵のうちに、私を私の山に堅く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠されると、私はおじ惑いました」。「私の山」とは、彼の立場、世にあって立脚しているところのものを象徴しています。神は恵みによって、ダビデを今の地位にまで導かれ、国を建て上げてくださったのに、彼は自分の力で立っているかのように錯覚し、平穏無事に過ごす中で、こう言ったのです。「私は決して揺るがされない」と。でも、主が御顔を隠されてしまう事態となり、彼はおじ惑ったのでした。


4,主への集中した思い

 主が御顔を隠されたような事態、疫病の流行と「墓に下って」行かねばならない生命の危険を経験した時、ダビデは悔い改めて、主に立ち返り、この詩篇にある祈りを捧げました。この祈りで注目すべきことの一つは、「主(ヤハウェ)よ」という呼びかけの多さです。合計8回も神の御名をもって呼びかけをして、ダビデは祈っています(1、2、3、7、8、10、12節)。それが示していることは、主というお方への思いの集中であり、主に対する熱き心です。
 歴代誌第一21章によると、神のさばきの直後、ダビデが悔い改めて行った事業は、神殿建設の準備でした。主によって示された「エブス人オルナンの打ち場に、主の祭壇を築かなければならない」(Ⅰ歴代21:18)を受けて、その土地を買い、全焼のささげ物の祭壇を築いたのです。そしてこう宣言しました。「これこそ神である主の宮だ」(Ⅰ歴代22:1)。そうして神殿建設に本格的に取り組んだのです。これがダビデの「主」への思いであり、「主」への集中でした。


5,神の大どんでん返し

 この詩篇の祈りが示すもう一つの大事な点は、神による「逆転」、「どんでん返し」ということです。1節から3節では、「穴に下らず」、「よみから引き上げられた」とあります。5節に「涙」から「喜びの叫び」に変えられたことが言われ、そして11節の「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました」と書いています。「粗布」を脱がせ、「喜び」の帯をまとわせてくださると、さらに続いています。これらすべては逆転です。神は、私たち主に頼る者たちを放ってはおかれません。
 使徒の働き3章に、この「嘆きから踊りへ」を身をもって表した人のことが書かれています。その人は「美しの門」という神殿の入り口に座って物乞いをしていました。彼は足が生まれつき不自由でした。しかし、ペテロたちに「金銀は私たちにはない。しかし、私たちにあるものをあなたにあげよう。ナザレのイエスの御名によって立ち上がれ。」と言われて、彼は変わりました。彼はよろよろと杖につかまりながら立ち上がり、やっとのことで歩いたのではなく、「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美した」(使徒3:8)のです。これが大どんでん返しです。神は、私たちをよみから引き上げて、滅びから救いへ、嘆きを踊りに、涙を喜びに変えてくださいます。