「喜びをもって祈る①」

ピリピ人への手紙 1:3ー8

礼拝メッセージ 2015.8.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,パウロが喜びをもって祈るのは、ピリピの教会の人たちが     (福音)にあずかっているからです

①パウロは神に感謝し、喜んでいます

 パウロがこの手紙を書いた時、獄中もしくは軟禁状態でした。ところが、ピリピの教会に向けて書かれたこの手紙は、冒頭から「感謝」(1:3,5)、「喜び」(1:4)、「愛」(1:8,9)という内容でした。ともすれば、私たちは「感謝」や「喜び」よりも、不平不満を抱き、心の痛みや悲しみに沈んでしまいやすい者です。パウロも別に完全無欠な人間であった訳ではないと思います。他の手紙の中では、彼自身が、あるときは心の痛みを感じ、苦しみを覚え、落胆さえしたことが書かれています。けれども、そういうことの中にあっても、絶えず湧き上がってくる「喜び」を彼は持っていたのです。この書を自分に宛てて書かれた手紙として、一言一言をたいせつにお読みください。きっと、そこにパウロが与えられていた「感謝」「喜び」「愛」の思いが読み取れると思います。

②パウロはピリピの教会が福音にあずかっていることを喜んでいます

 パウロがなぜ、喜びをもって祈ることができたのかを見ていくと、それは第一に、ピリピ教会の人たちが福音にあずかって来たことであると語っています。5節に「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています」とあります。「福音を広める」の「広める」は意味を補う言葉で、新改訳聖書の脚注の別訳にあるように、直接には「福音にあずかって来た」と書いています。「福音にあずかる」とは、福音を知らされ、福音を受け入れ、福音によって救われ、福音によって生かされ、福音に則って生活し、福音を分かち合うことであって、福音の恵みを受けることのトータルなあり方を指しています。
 福音は、旧約聖書から語られてきた神の救いと解放の出来事が、イエス・キリストによって実現され、私たちに与えられたものです。キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られ、復活され、現れてくださったことです。この王であられるキリストを迎え入れるならば、この方によって導かれ、生きる道が示されるのです。
 この福音にあずかることがパウロの喜びの基礎であったと言えるでしょう。


2,パウロが喜びをもって祈るのは、良い働きを始められた方が最後に必ず       (完成)してくださることを確信しているからです

①神は私たちのうちに働いて、事を行わせてくださるのです

 「あなたがたのうちに良い働きを始めれた方は、キリスト・イエスが来るまでにそれを完成させてくださる」(6節)という言葉は、霊的な真実を明らかにしている素晴らしい表現です。「良い働きを始められた方」とは誰でしょうか。パウロでしょうか、他の働き人を指しているのでしょうか。もちろん、そうではありません。この表現が表しているのは、明らかに「神」です。神の御国のために、確かにある人物やグループが用いられます。けれども、それらの人たちの心の中に働いて、計画させ、遣わされるのは、神にほかなりません。パウロはそのことを別の手紙で次のように述べています。「それで、たいせつなのは、植える者でもなく、水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです」(Ⅰコリント3:7)。そしてこのピリピ書でよく知られた次の言葉でも同じことが言われています。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(2:13)。

②完成させてくださるのも神であることを信じましょう

 感謝なことに、良きわざを始めてくださるのも神様ですが、それを完成し、全うしてくださるのも神ご自身であられるということです。人は良いことに着手できたとしても、それを最後までやり抜くことができるとはかぎりません。障害となるものや、困難な事態が起こると、ひるんでしまい、途中で投げ出したり、挫折したりしてしまいます。ところが、神には挫折も、頓挫することも決してありません。まさにネバー・ギブアップであるお方なのです。人の目には到底不可能に見えるような状況であったとしても、神には何ら差し障りはなく、御心ならば、必ず完全に成就なさいます。それも、終わりの日、キリストの再臨までの期間内に、何の不備もなく完成してくださいます。