ピリピ人への手紙 1:1ー2
礼拝メッセージ 2015.7.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
現代社会は、様々な苦しみを抱えた人が多く、悲しみと失望感に覆われているような気がします。しかし、聖書は私たちに真の喜びが存在し、誰でもそれを受け取ることができることを教えています。「喜びの手紙」と呼ばれているこのピリピ人への手紙から、ともに神の言葉を聞いていきましょう。 J・マッカーサー師によると、聖書的「喜び」とは次の6つの特質を持っているということです。(1)喜びは神からの贈り物であること、(2)神は福音を信じる人に喜びを与えられること、(3)喜びは聖霊によって生じるものであること、(4)喜びは神の言葉を受け入れ従う時に経験できること、(5)信じる人の喜びは試練を通して深まること、(6)信じる人の喜びはその希望が天の栄光の上に置かれる時に完成されること(”Philippians” The MacArthur New Testament Commentary pp.10 Moodyより)。
1,パウロは、キリストの (しもべ)として、この喜びの手紙を書きました
①パウロはピリピの教会に対して深い愛情を持っていました
ピリピの町はギリシア北方のマケドニア地方の町で、ローマとアジアをつなぐ要所でした。使徒の働き16章に詳細が記されていますが、伝道旅行中のパウロ一行が聖霊の導きにより、マケドニアに渡り、紫布の商人のルデヤとその家族がまず救われ、続いて投獄されていた監獄の看守とその家族が救われ、ヨーロッパ最初の教会がピリピの町に建てられました。パウロにとってこの記念すべき、思い出深いピリピの教会は、その後、パウロの宣教の働きを物心両面で支えたのです。
②パウロは自らを「キリストのしもべ」として表現しました
パウロはこの手紙の差出人として、自分とテモテを「キリスト・イエスのしもべ」と書き表しました。彼の書いた書簡の中で自らを「しもべ」と冒頭に書いた書は、他にはローマ書とテトス書の2つだけです。しかもそのどちらもに自分が「使徒」であることも付け加えたのですが、この手紙には「しもべ」とだけ記しました。日本語で「しもべ」と通常訳されるこの語は、直接には「奴隷」のことを意味します。パウロは、出エジプト記21:5−6にあるような「私は…自由の身となって去りたくありません」と主人に申し出て、自ら進んでなったと言える、主イエスの「奴隷」でありました。自らの欲望の奴隷でも、お金の奴隷でも、仕事の奴隷でもなく、キリストの奴隷となったのです。実は、ここに真の喜びに至る秘訣を見ることができます。
2,パウロは、すべての (聖徒)に向けて、この喜びの手紙を書きました
①パウロは宛先に「監督と執事たち」と書きました
この手紙以外で、わざわざ「監督と執事たち」という言葉を冒頭の宛先部分で、パウロが記しているものはほかにありません。この表現から、当時の教会には早くから「監督」「執事」の役割があったことを知ることができます。でも、おそらくそれ以上の情報がこの表現には含まれているのでは、と私は考えています。これは、教会のリーダーシップを担う人たちに対するパウロの思いやりに満ちた「声かけ」であったと想像しています。ピリピの教会も、人の集まるグループであることから、当然さまざまな課題を抱えていました。この手紙から推測できる問題は、例えば、仲違いをして対立するクリスチャンがいたこと(4:2)、極端な律法主義者の存在(3:2−3)や、全く反対の無律法主義的な者たちがいたこと(3:18−19)などです。こうした中、苦労と忍耐をもって牧会の働きを負っている人たちに、励ましの心をもってこの書の宛先に加えて記したのでしょう。
②パウロは宛先に「すべての聖徒たち」と書きました
それと同時に、パウロは「すべての聖徒たち」に読んで欲しいと書きました。上で述べたように、この教会の問題として、対立や分裂的な傾向があったのかもしれません。それで1〜8節の短い文章の中に「あなたがたすべて」「あなたがたはみな」等の「すべて」という言葉を5回も繰り返したのです。一人一人が神から召し出され、救われ、聖なる者として導かれているという全体感覚、共同体意識を持ってもらうためです。そして2節にある言葉は単なる挨拶文ではなく、聖徒一人一人が、そしてさらにこの書を読むすべての人たちが、父なる神と、主イエス・キリストにある恵みと平安を得て、真の喜びを得ることを願って書いた言葉でしょう。どうぞあなたもこれからピリピ書に聞き、学び、従うことを通して、真の喜びを得られますように。