マルコの福音書 9:38ー41
礼拝メッセージ 2021.6.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,弟子たちを愛し、指導するイエス
弟子ヨハネについて
ヨハネがイエスに報告したことから始まるこの38節から、9章の終わりの50節まで、エルサレムへの道へ向かわれるイエスが弟子たちに教えられたいくつかの内容が書かれています。ここに登場するヨハネは、漁師ゼベダイの息子で兄弟ヤコブとともに主の弟子として仕えた人です。死んでいた少女を「タリタ・クム」と主が言われてよみがえらせたときも(5:35〜43)、高い山で御姿が変貌したときも(9:2〜8)、十字架を目前にしてゲツセマネで祈られたときも(14:32〜42)、ヨハネは、ペテロとヤコブとともに、イエスにひじょうに近い場所にいることを許されたのでした。ヨハネについてもう一つ注目できる点は、おそらく彼と兄弟ヤコブとは激しい気性の持ち主であったと思われることです。イエスが名づけたボアネルゲという名前は「雷の子」という意味であったことが記されています(3:17)。また彼はイエスが栄光をお受けになるとき右か左の座に就けるよう願い出て、他の弟子たちから不興を買いました(10:35〜37)。良く言えば熱心な人であり、その激しやすい心ゆえに勇み足になりがちな人物だったのでしょう。そんなヨハネの性格を踏まえて38節を読むと、イエスの名前を使って悪霊を追い出している人に対して、それをやめさせようとしたという報告は自己アピールにも感じられ、自信をもって誇らしい気持ちで語ったのではないかと想像できます。当然イエスから褒めてもらえると思って語ったのでしょうが、期待に反してイエスからは全く逆のことを言われてしまいます。「それは間違っているよ。禁じてはいけないのだ」とイエスは彼をたしなめられました。
優しく教えるイエス
しかしここでヨハネに語られ、弟子たちに教えを語られるイエスは、厳しく咎め戒められたというよりも、穏やかに語られたような印象を受けます。言葉少なめな本福音書ですが、39〜41節を詳細に見るとイエスが丁寧に諭すように語られていることが読み取れます。翻訳ではわかりやすい文章とするために省かれていますが、ギリシア語では3回「なぜなら」(ガル)という語が語られています。イエスは「やめさせてはいけません」と最初に結論を言われたあと、「なぜなら」「わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません」、次に「なぜなら」「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です」と言われ、最後に「なぜなら」「あなたがたがキリストに属する者だということで…」となっています。「こういう理由だから、やめさせてはいけないのだよ」と語られていることがわかります。イエスは弟子たち一人ひとりの個性をよく知り、彼らを愛して、理解できるように言葉を選び、忍耐深く指導していかれたのです。
2,弟子たちの狭量さと高ぶりを正すイエス
イエスの御名が宣べ伝えられているか
「やめさせてはいけません」、「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です」と包容力のあるイエスのことばですが、言われている意味を誤解しないように注意が必要です。赦すことや寛容であることが何でも正しく善であるとは語られていないということです。イエスは別の場面ではパリサイ人や律法学者といった人々に対して、厳格な対応をなさっているのです。ここで押さえておかなくてはならないポイントは、イエスの御名が宣べ伝えられているかどうかということです。38〜41節で繰り返され強調されていることばは「名前」です。ヨハネが禁じようとした人は魔術的効力から「イエス」の名前を使ったのかもしれません。あるいはイエスのことを知り、そのなされている御業や歩みを知っていても、イエスとその集団に直接繋がっていたわけではなかったのか、実際はどうであったのか詳しいことはわかりません。ただ明確なことはこの人は「イエス」の御名に力があることを知っており、その御名を呼んで悪霊を追い出していたという事実です。彼の行動により、結果としてイエスの名を人々が知るようになったのかもしれません。
謙遜と寛容、宣教協力
のちに使徒パウロがピリピ人への手紙で記しているのは、投獄されている彼を苦しめ、その妬みや競争心から、キリストを宣べ伝えている人々がいたということです。けれどもパウロはそれを「見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられている」ことを喜んでいると語っています(ピリピ1:12〜18)。ボンヘッファーが言うように「キリストの名が広い空間を造る」のです。今日の時代においても気をつけなくてはならないことは、自分が所属している教会や教派、また神学理解を尊ぶあまり絶対化して見てしまうことです。神様も聖書ももちろん間違いはありませんが、自分たちだけが正しいことを知っているという思い込みは他者への寛容さや謙遜さを失うことになります。自分たち以外のキリスト者に対してひどい批判をしたり、攻撃をしてしまうこと、そして独善的になって孤立してしまわないように注意が必要です。むしろ同じ主を愛して礼拝し、主を宣べ伝えている別のグループに対して、謙遜な心をもって互いに学び合い、一致協力して、イエスの御名を知らせることに注力するように努めていきたいと願います。
3,イエスの御名の力
次にこの聖書箇所からしっかりと汲み取っておかなければならないもう一つの事柄は、イエスの御名に基づいて信頼して生きることの大切さです。イエスの御名の偉大さ、そのお名前が持つ力や権威について、深く心に留める必要があります。この箇所の前の37節で主はこう言われました。「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」。イエスの名のゆえに人を受け入れることができ、御名のゆえに力あるわざを行うことができ、御名のゆえに伝道できる、これが新約聖書が大胆に語っている真理です。この福音書は厳しい迫害下にあって、ローマでマルコによって書き記されたと言われています。この書が書かれ読まれている当時、人々は自らの信仰を語ることの危険、御名を呼ぶことやイエスを主と告白することの重大さを知っていました。39節でイエスは「わたしを悪く言える人はいません」と言われていますが、それは逆に見ればこれからイエスを悪く言う人が出て来るということの暗示です。イエスのことを悪く言い、罵り、迫害する人々が増えて来ることを予見することばです。
それでもイエスに従う人たちは、何があろうとこの「イエスの御名」から離れることはありませんでした。なぜなら、この名前にこそ真の力があるからです。