ガラテヤ人への手紙 6:11ー18
礼拝メッセージ 2022.9.25 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,十字架以外に誇るものなし
割礼を強いる者たちの隠された動機
ガラテヤ人への手紙の講解も最後を迎えました。今日の箇所は、手紙の「追伸」にあたるものであり、書物としては「結びのことば」です。これまで繰り返し論じられてきた「割礼」の強要問題が終わりにも記されています。ガラテヤの教会の人たちの信仰を「動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たち」(1:7)が群れを荒らし回っていました。それで最後に、このように割礼を強要してくる人たちの本当のねらい、動機は一体何であるのかを暴露するのです。彼らの正体を明らかにするその動機が二つ挙げられています。一つは、彼らは「肉において外見を良くしたい」(12節前半)という理由で、教会の人々に割礼を強いていたということです。すでにパウロたちから宣教のことばを聞いて回心し、心が柔らかくされていたガラテヤの異邦人たちに、ユダヤ主義的な偽教師たちがプラスアルファとして割礼を受けるように人々に強制し、そのことによって多くの改宗者が出ることに誇りを感じていたと思われます。改宗者である人々自身の信仰のことよりも、改宗活動の実績や成功によって、偽教師たちは自分たちの立場が高められることに強い関心を持っていたのです。
二つ目に、同じく12節の文章にあるように、異邦人の改宗者に割礼を強制することによって、彼らは「キリストの十字架による迫害」を回避しようとしていたということです。パウロたちや初代教会の人々に対する他のユダヤ人たちの攻撃や圧迫は激しいものでした。国粋主義的ユダヤ教徒たちは、教会が多民族から構成されている特性に対して不快感を示していましたし、「十字架につけられたキリスト」は「ユダヤ人にとってつまずき」(Ⅰコリント1:23)でした。こうした迫害から逃れるために、ガラテヤの教会に潜入していた敵対者たちは、割礼を強いることでこれを避けようとしたのでした。ですから、パウロはこの者たちは律法を守ろうとしていたのではないし、律法を守ってもいないのだと彼らの罪を明らかにしています。
十字架だけを誇る
人間的な間違った動機で自らを誇り、高ぶっていた人たちに対して、パウロははっきりと宣言します。「キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」(14節)。十字架以外に誇るものがあってはならないと語ったこのことばは「私には」ということばが付いています。パウロ自身は「今、私はそのようには生きていないし、これからも決してそのように生きることなどないのだ」、という強い決意のことばにも聞こえます。
もしかすると、割礼を強いていたこのユダヤ主義者たちも自分たちが悪いことをしているという自覚はなかったのかもしれません。彼らは、キリストの福音を変えてしまおうとしていたのではなく、ただ、旧約聖書を奉じているユダヤ教徒にも気を配って仲良くやっていくためにも、異邦人には割礼を受けさせたほうが良い、そのほうがうまくいくと考えて、動いていたのかもしれないのです。彼らはむしろパウロたちよりも、全体として良いことをしているという思いがあったのでしょう。彼らに惑わせられていた教会の人たちも同じ思いであったのかもしれません。福音を信じるだけでなく、律法まで守ろうとしているのに、どこに問題があるのかという疑問があったでしょう。しかし、それが肉のわざでした(12〜13節)。キリスト者が誇ることのできるものは、ただ十字架だけであり、十字架に何か付け加えるならば、それは十字架を否定することになるのです。どんなに良いと思ってすることであっても、自分はこんなに良いことをしているのだと誇るとき、十字架ではなく、自分を誇っていることになります。パウロがコリント書に記しているように、教会の土台は「イエス・キリスト」だけです。他のものを据えることは絶対にできません(Ⅰコリント3:10〜11)。もしそうしようとするなら、それによって、キリストのからだである教会は壊れてしまうのです。
2,新しい創造
世は私に対して、私は世に対して十字架に
キリストの十字架以外に誇るものはないということばには続きがあり、それが「この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」(14節)ということばです。これは笹尾鉄三郎師が讃美歌で「十字架によりて/われ世に死し/十字架によりて/世われに死す」と表現されたことばです(『新聖歌』101番)。ここでの「世」とは、「悪の時代」(1:4)であり、「もろもろの霊」(4:9)に支配され、「ユダヤ人、ギリシア人」、「奴隷」と「自由人」、「男と女」という差別や敵対的な隔ての壁が存続している世界のことを指しています。
しかし、みことばは言うのです。その「世」という存在は神の御前にすでに十字架につけられてしまっているし、パウロ自身も「世」に対しては十字架につけられて死んだ存在なのであると。もちろん、パウロと同じように、信仰によってキリストに繋がるすべての人たちにとって、そうなのです。このように私たちの主イエス・キリストの十字架は、この世界の決定的なターニングポイントとなりました。私たちの古い自分のすべてが十字架につけられて滅ぼされ、この世との関係は決定的に断絶させられています。ですから、全く新しい神の恵みの中へと造り変えられて、新しく創造されたものとして生きるようにされているということです。ある牧師が説教でこのところを「十字架はわれわれを徹底的に殺し尽くす。そして新しく生かす。」と表現しています。
イエスの焼き印を帯びて生きる
「十字架によりてわれ世に死す」と歌いましても、「世」で生きている現実の私たちには「死にました」となかなか言い切ってしまえない、信仰の戦いが存在します。ですから、パウロのギリシア語本文は「十字架につけられてしまっている」と完了形になっています。もうつけられてしまっているが、なお完全に終末に至ったのでも過ぎ去ったのでもないということです。しかし、私たちはこの世に対して、すでに「十字架につけられてしまっている」という真理に基づいて、生きなければなりません。それはどういうことかと言うと、世との緊張関係は避けられないということです。世がすでに造り上げている権威、基準、計画を知りつつも、それとは異なった神による「新しい創造」の「基準」(16節)、神の恵みによって立てられた別の権威やご計画に従って歩むのです。ときにそれは対立し、逆行することさえあり得ます。そこに生じる緊張や軋轢は、私たちを苦悩や困難に至らしめるかもしれません。パウロは、そこで自分のことについて述べ、「この身にイエスの焼き印を帯びている」(17節)と書きました。「焼き印」とは奴隷が所有者に属することを表すために付けられたものです。パウロの場合は、宣教の働きによる迫害で彼が受けた傷のことであり、自分がキリストに属するものであることを指しています。この「焼き印」は、パウロだけが背負っているものではないと思います。世との緊張関係の中で生きる私たちすべてが、主のために払う実際的な犠牲、困難、戦いによって生じる傷、損失、痛み、そうしたすべてが「イエスの焼き印」なのです。