「十字架を見よ②」

マルコの福音書 15:33ー41

礼拝メッセージ 2015.6.28 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,十字架の出来事は、イエスが、
死の             (苦しみ)と絶望を味わい尽くされたことを語っています

①十字架の上でのイエス

 「午前9時」(25節)、「12時」(33節)、「3時」(34節)と福音書には珍しく、時間が記されています。イエスは午前9時に十字架につけられ、午後3時に息を引き取られましたので、約6時間、イエスは十字架の上で苦しまれました。「ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて」(44節)にあるように、通常よりも早い死であったことが示唆されています。十字架にかかられる前からの精神的苦痛やひどい拷問等を受けられたことを考えると、この十字架においてその苦しみが頂点に至られたということでしょう。

②彼らの行動は詩篇22篇に預言されていました

 その苦しみの極限で「わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(34節)と叫ばれました。神の子であるイエスがなぜこのような言葉を言われたのでしょうか。この言葉は神への問いであり、訴えのような叫びです。そんな言葉がすべてを悟っておられるイエスの口から出て来ることに意外な思いを持つ人は少なくないと思います。この言葉は詩篇22:1の表現とほぼ同じです。この詩篇が最後の部分で主への賛美で閉じていることから、真意はそこにあったと考える人もいます。でも、もっともストレートな理解の仕方は、イエスが死に至る苦しみと絶望を味わい尽くされ、心からの呻きと悲しみをもって表現してくださったということでしょう。私たちはこの苦しまれたお方のことを知れば知るほど、心のうちに癒やしと平安をいただくことができるのです。


2,十字架の出来事は、イエスが、
苦しみを通られたゆえに            (神の国)が到来したことを示しています

①神の国の到来を示すしるし(1)ー 全地が暗くなる

 十字架の出来事の中で生じた一つ一つを考えながら見ていくと、そこにはいわゆる偶然ではない様々なことが起こっていることに気づきます。「十二時になったとき、全地が暗く」なった(33節)と記録されています。これはやはり何かを暗示する気象現象だったのでしょう。アモス書8:9−10に「その日にはー神である主の御告げーわたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、…その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする」とあります。これはさばきの日ですが、同時に回復と繁栄の日です(アモス9:11−15)。

②神の国の到来を示すしるし(2)ー 神殿の幕が裂ける

 神殿の垂れ幕が上から下まで裂けたことは最も象徴的な出来事でした。これは聖所と至聖所とを仕切る幕でした。イエスの十字架は、私たちすべてをすばらしい神の臨在の前に招く出来事だったのです(ヘブル10:20)。

③神の国の到来を示すしるし(3)ー 「エリヤが来る」との声

 イエスが十字架で叫ばれた言葉は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とわざわざアラム語の音声で記されています。これにはいくつかの理由があるでしょうが、その一つはそれを勘違いして、「エリヤを呼んでいる」「エリヤがやって来て彼を降ろすかどうか」とそばに立っていた人たちが言った言葉とのつながりを明らかにすることでした。この愚かな間違いの言葉の中にも、神の国到来のしるしが暗示されています。マルコ9:12でイエスは「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか」と言われました。マルコはこの十字架の出来事の中で「エリヤ」のことを語る者の言葉を通して、十字架が死と悲しみで終わるものではなく、神の国の到来の預言の成就が開始されたことを暗示したのです。


3,十字架の出来事は、イエスが、
苦しんで死なれた姿によって             (神の子)であることを証ししています

 マルコの福音書の中で、イエスを「神の子」と告白したのは、御父以外には、実はこの異邦人の百人隊長と、汚れた霊ども(3:11,5:7)だけでした。冒頭1:1でこの福音書は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と表題を明らかにしていましたように、すべての人がイエスを「神の子」と信じ、この告白に導かれることを願って書かれたものなのです。ローマで執筆されたこの福音書にとって、ローマの百人隊長が、十字架に架けられ苦しみつつ死なれたイエスを真向かいに見上げて「まことにこの方は神の子であった」と告げることで、ローマ世界、異邦人にまで福音が及んでいくことを示しているのです。