マルコの福音書 15:21ー32
礼拝メッセージ 2015.6.21 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
十字架刑は、当時、ローマ人によって用いられた恐ろしい死刑方法でした。受刑者は、宣告を受けると刑場まで十字架(あるいは横棒)を運ばされ、鞭で打たれ、衣服をはがされ、腕を広げてT字型か十字型の木製の十字架に釘を打ちつけられて固定されました。通常、極悪犯罪人か反乱を起こした者たちがつけられました。
1,十字架に (無関心)な人たちがいました
①兵士たちは無関心で、イエスの衣をくじ引きにしていました
イエスが十字架につけられるとき、その場にいて刑の執行や見張りを務めたのが兵士たちと思われます。彼らにとって、イエスの十字架は、一犯罪人の処刑にすぎませんでした。それゆえに、それが自分にも関係し、人類にとって重要なことであるとの認識はありませんでした。彼らは十字架の近くにいながら、無関心の中に置かれた人たちだったのです。
②彼らの行動は詩篇22篇に預言されていました
24節に「くじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた」とありますが、たとえば原語本文のギリシア語校訂本(ネストレ28版)を見ると、この言葉は斜体で表現され、脚注と合わせてみるとこれらの言葉が詩篇22:18にある「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」の引用表現であることが指摘されています。預言的な視点に立てば、着物を分け合うという彼らの無関心的態度は、すでに神によって見越されていたし、彼らの行動は神に知られていたのです。
2,十字架に (敵対的)な人たちがいました
①道を行く人々は反感的な態度でイエスを罵りました
「道を行く人々」は十字架を冷ややかな眼で見ながら、ののしりの声(言わばヤジでしょうか)をイエスにぶつけました。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ」と言っていますから、彼らはある程度、イエスのことを知り、興味も持っていた人たちでしょう。けれども彼らの態度からわかるように、それは正しい知識ではありませんでした。情報化時代に住む現代の人たちのように、彼らは多少の情報をもって人や出来事を評価し、無責任な言葉を(無記名で)、ばら撒くのです。
②祭司長たちと律法学者たちは敵対する心でイエスをあざけりました
祭司長や律法学者たちはイエスが十字架にかかるように働きかけてきた張本人たちです。彼らの心は明らかな敵対心と憎悪に満たされていました。いつの時代においても、十字架にかかられたイエスに敵対する人たちはいるのです。「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」(ピリピ3:18)
③いっしょに十字架につけられた人たちもイエスを罵りました
イエスの左右に十字架につけられた犯罪人たちは、おそらく最初は両方の者たちがイエスをののしったのでしょう(ルカの福音書によれば、後に片方の者が悔い改めた)。
3,十字架を (背負わ)された人がいました
①通りかかったクレネ人シモンは十字架を背負わされました
クレネとは、北アフリカの港町で、ここにユダヤ人居住区がありました。彼はその町出身のユダヤ人だったのでしょう。「いなか」と訳されている言葉は「畑」とも訳せますから、もしかすると朝一番の畑仕事を終えて、たまたまそこを「通りかかった」ら、刑場(ゴルゴタの丘)に向かう人々の列と遭遇したのです。見ると、受刑者の一人が弱って立ち上がれず、行進が進んでいません。そこで兵士たちに突然彼は呼び止められて、重たい十字架の棒を担ぐように徴用されてしまったのです。
②彼は「アレキサンデルとルポスとの父」と記されています
しかし、この「クレネ人シモン」が、多くの人たちの理解では、やがて主イエスを信じて弟子となり、彼の家族も救われたのです。それはこの21節で「アレキサンデルとルポスとの父」という表現があるからです。ローマ16:13に「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私の母によろしく」とパウロが記した「ルポス」と同一者と考えられているからです(前掲のネストレ28版にも引照箇所としてローマ16:13が記されています)。こうしたことが事実であるなら、シモンは十字架をむりやりに背負わされるという強烈な体験のあと、本当の意味で彼の十字架を背負って歩むことになりました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコ8:34)。あなたは十字架とどう向き合いますか。