「十字架によるイエスの処刑」

マルコの福音書 15:21-32

礼拝メッセージ 2022.2.20 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.十字架を背負った無罪のクレネ人シモン

 イエス様が十字架の横木を背負わされて、処刑場まで歩いたとされる道は、ビアドロローサ(悲しみの道)と呼ばれています。人となって地上に生まれて来られたイエス様の肉体は、すでに限界を迎えていました。そこで、イエス様の代わりに無理やり十字架を背負わされたのが、クレネ人シモンという人です。田舎から来ていたクレネ人、つまり、彼はおそらく北アフリカから足を運んで来ていました。それも、過越の祭りの時期にエルサレムに訪れていますから、彼にとっては喜びの旅であったはずです。それなのに、本来ならば囚人が背負うはずの十字架(それも神にのろわれていることを意味する処刑方法)を「無理やり(15章21節)」背負わされたというのは、非常に気の毒な出来事です。
 彼は、マルコの福音書ではこの場面しか登場しないので、その後のことについては分かりません。しかし、突然登場する人物であるにもかかわらず、詳細な説明がないままに、「彼はアレクサンドロとルフォスの父で(15章21節)」とだけ加えられています。これについては、推測でしかありませんが、マルコの福音書が書かれた当時の読者(この場面からおよそ30年後ではないかと言われている)には、「アレクサンドロとルフォス」と言えば周知のキリスト者であったと想像できます。ローマ人への手紙16章13節に登場するルフォスと同一人物である可能性も考えられます。ここでは、イエス様の十字架刑に突然巻き込まれた気の毒なシモンですが、この後、彼はこの出来事を最後まで見届けて、イエスというお方をまことに知ることになったのかもしれません。
 過越の祭りのために田舎から出てきていたシモンは、喜びであるはずのエルサレムでの滞在期間中に、囚人が背負うべき十字架の横木を無理やり背負わされました。おそらく偶然近くにいただけの、無罪である彼が、まるで自分が死刑囚であるかのようにして屈辱を受けながら背負わされることになるとは、非常に理不尽な話ですが、イエス様こそ無罪であるにもかかわらず、十字架を背負わされたお方です。私たちは、ここでイエス様が受けていた屈辱に敏感でありたいと思います。


2.無罪であるのに、嘲られ、ののしられたお方

 ゴルゴダという所は、「どくろの場所」という意味ですが、そこに大量のドクロが散乱していたとはユダヤ人の慣習からは考えにくいので、処刑場であるために、不気味であることからそのように呼ばれていたか、どくろのように見える岩があったのではないかと言われています。
 没薬を混ぜたぶどう酒とは、感覚を麻痺させるものです。イエス様はこれをお受けになりませんでした。その理由は書かれていませんが、天の父によって与えられる苦しみに抵抗することなく、すべてを味わうためだったのかもしれません。
 それから、イエス様は十字架につけられ、くじ引きによってイエス様の衣が取り分けられました(24節)。衣を取り分けるとは、囚人を思い、涙を流すような行為ではありません。文脈からも読み取れるように、これは囚人を見下し、ののしる行為でした。しかし、「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします(詩篇22:18)」という預言の成就でもあります。
 イエス様がつけられた十字架刑とは、ローマの極刑で、奴隷を処刑する方法でした。処刑されるということは、罪人であるということですが、イエス様の罪状書きは「ユダヤ人の王」ということです。イエス様が「メシヤ」であると自称したことに対する罪であり、政治犯であるということでしょう。これには、無様な姿のイエス様に対する皮肉やののしりも込められています。それから、⑴通りすがりの人々、⑵祭司長たち・律法学者たち、そして、⑶一緒に十字架につけられていた者たちまでもが、イエス様を嘲り、ののしりました。「通りすがりの人々」とは、イエス様を嘲ったのは祭司長たち・律法学者たちだけではなく、一般のユダヤ人も大勢含まれていたことを意味しています。彼らは、「通りすがり」ではありましたが、「神殿を壊して三日で建てる人よ」という言葉から、イエス様の裁判についてある程度は理解していた人たちでした。
 イエス様は十字架につけられるまでに、ここまで見てきたような数多くの侮辱をお受けになりました。どれを取っても、イエス様を見下していなければできない行為です。イエス様は、人々の嘲りやののしりに抗うことなく、沈黙されたまま苦しみをお受けになりました。ここに、天の父に対する従順さと信頼を見ることができます。


3.ご自分を救おうとせず、主の道を従い抜いてくださったお方

 通りすがりの人たち、祭司長たち・律法学者たちの侮辱の中心点は、イエス様は「自分は救えない」ということ、そして、「十字架から降りれば、自分を救うことになる」ということです。しかし、彼らの言い分に真理がないことを、私たちは恵みによって知らされています。イエス様は、ご自分を救わなかったからこそ、十字架から降りなかったからこそ、他人である私たちの救い主となってくださいました。天の父の視点と、私たちのそれとが、いかに乖離しているのかということに気づかされます。
 人からの嘲りやののしりを恐れる私たちにとっては、人の目には愚かに見える道を天の父に示されるようなことがあれば、逃げ出したくもなるものです。実際に、イエス様を愛していたはずの弟子たちでさえそうでした。しかし、イエス様は、天の父が示された道に従うことこそが祝福であることを知っておられ、天の父への信仰のゆえに、その生涯を全うされました。イエス様が十字架につけられた事実は、「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚か(Ⅰコリント1:23)」なことですが、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い(同1:25)」という事実から目を離さずに、私たちもイエス様に倣い、天の父の御心に従い続ける者でありたいと願います。